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アメリカでは6月から8月までの3ケ月間が夏休みになり、その休み前の5月が卒業のシーズンとなる。
ここチューク地方でもその例にもれず、島々は今まさに卒業式のオンパレードと言ったところだ。
幼稚園から高校まで、毎週末になるといつもどこかでにぎやかに卒業式が行われている。

中でも、モエン島にあるザビエル高校の卒業式は島を巻き込んでの感がある。
戦後間もなく、日本時代の通信隊基地を利用して開校したこの高校は、ミクロネシア随一の学校で、
パラオ、ヤップ、ポナペ、コスラエ、マーシャルなどミクロネシア各地から生徒がやって来る。
国外から来た生徒たちは、現地のホストファミリーの家にステイして4年間を家族同様に過ごす事となる。
そして、卒業ともなると、そんな生徒たちの父兄や友人たちが、卒業式の1週間ほど前から飛行機を乗り継いでチュークに集まって来る。卒業式を前にして、早くも現地のホストファミリーの家では、遠来の友を迎えて連日パーティーが繰り広げられる。
そして卒業式。
家族や友人、ホストファミリーの面々が学校に馳せ参じ、卒業生1人1人に祝福の言葉を贈りながら、次々と首にマラマーを掛けていく。
生花の首飾りがあればキャンディーをつなぎ合せたもの、紙幣をつないで作った首飾りまで登場する。
どの顔も、どの顔も、今日を迎えた喜びに満ち溢れている。

そして、卒業式の夜には島と学校を巻き込んだ大パーティーが夜を徹して催される。
しかもこれで終わりではない。
国に帰る生徒や父兄たちをもてなして、彼らが帰る日まで毎日、毎晩、パーティーは繰り広げられていくのである。

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28日の木曜日、卒業式を2日後に控え、ザビエル高校の文化祭が2年ぶりに開催された。
ザビエル高校には、パラオ、ヤップ、ポンペイ、コスラエ、マーシャル、チュークなどミクロネシア各地から生徒達が集まっている。2年に一度行なわれるこのカルチャーデイ・文化祭にはミクロネシア各地のダンスや物品が展示即売される。生徒達はこの日のために、勉強の合い間を縫って猛練習を繰り返して来た。ザビエル高校には勉学だけでなく、郷土の伝統を生徒達で伝承する習慣がある。今年もまた、生徒達による郷土の踊りや芸能が披露され賑やかな一日となった。

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マブチスクールこと、ザビエル高校の本校舎修復事業の実測調査がこの程実施された。
戦時中に馬渕建設によって建築された元・日本軍通信隊基地の建物である。
馬渕建設創業100周年記念事業の奉仕活動の一環で、この建物の修復を行う事になった。
修復作業は、学校が夏休みとなる6月~8月の間に予定されている。
昨年11月の訪問から3ヶ月目の今日、そのための現地実測調査がこの度行なわれた。
強固な建造物とはいえ、アメリカ軍の猛爆に晒された建物は、方々に傷をおったまま、この60年間を耐え生き抜いてきた。これまで幾多の優れた人材を世に輩出してきたこの建物も、もはや歳月には耐え難く随所に支障をきたし始めている。
馬渕建設の社史によると、当時、軍部から破壊命令の出たこの建物を、『協力してくれた島民の将来を考え、そのままにしておくように』と言う社命のもとに残された建物である。
先人達が尊い命と引き換えに、この地に残した貴重な財産が、今また馬渕マン達によって命を吹き込まれる事となった。
校舎の片隅には、作業の安全を祈って、日本語クラスの生徒達によって作られた千羽鶴が飾られている。

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チュークの主島・モエン島東端の丘の上に、ザビエル・ハイスクールと言う学校がある。
終戦から7年目、当時の日本軍通信隊基地の強固な建物をそっくり利用してその学校はスタートした。
キリスト教・イエズス会系の高校で、ミクロネシア全域から優秀な子供達がこの高校を目指し集まってくる。毎年1200~1300人程が受験をして、合格できるのは僅か45名だけという超狭き門である。

この学校の名前を現地の人達は『マブチスクール』と、親しみを込めて呼んでいる。
『マブチ』とは、当時の建設会社『馬淵組(現・馬渕建設)』の事である。
日本時代、幾つかの日本の建設会社が、このトラック島に進出し軍や民間の建築物に携わっていた。
馬淵組もその一つで、当時のトラック島の中心地だったデュブロン島(夏島)に本拠を置き、多くの建築を手がけた。現在のザビエル高校のメーンの校舎は、その時の馬渕組が建てた建築物だったのである。

馬渕建設は横浜にその本社があり、2009年には創業100年目を迎える。
そしてこの100年祭のイベントにザビエル高校を紹介する事となった。
早速、社内に調査チームが編成され、この11月18日~22日現地視察が実現した。
メンバーは、副社長、常務取締役、社史編纂室長、の3名。社内の重臣の方達である。

ホテルから15キロの道のり、デコボコの道路をバスは走る。やがて本道からはずれ山道に差し掛かると、これまでにも増してのガタガタ路をバスはあえぎながら登り、丘の上にあるザビエル高校のキャンパスに到着した。バスを降りると、眼下にはトラック環礁の青い海と緑の島々が一望に見渡せる。絶景だ。
そして丘の中央には、鉄筋コンクリートの強固な建物が目の前に立ちはだかっている。自社の先輩達が命を賭して建てた建物だ。大戦の戦火にも耐え、60年の歳月を生き抜いてきた。
奇しくも、訪問団3人とほぼ同じ年齢である。
戦争の為に建てられたこの建物は今、平和と未来の象徴である子供達によって見事に命を与えられ、
これまでに幾多の人材を育み、ミクロネシアの教育と平和の為に多大な貢献をしている。

今も変わらぬ赤い大きな鉄の扉が、3人を招くように大きく開かれている。
薄暗いホールの中に入って行くと、生徒達の心のこもった歓迎が待っていた。
自分達と同じ会社の中で、自分達と同じ歳月を生き抜いてきたこの建物の中で、
そしてこの建物に育てられた子供達の、懸命のもてなしを受けている今・・・。
彼ら3名の胸中は如何ばかりであっただろうか・・・。
きっと長い人生の中で、これまでにも増して馬渕マンとしての誇りを感じていたに違いない。

そんな思いの中、生徒達に建物の案内を受け、学校長との会見に臨んだ。
今回の訪問には、もう一つの目的があった。
100年祭を迎えるにあたり、馬渕建設としてザビエル高校に何らかの援助をしたい、と言うものだ。
その申し入れを、学校側に正式に通達し、現場視察を綿密に行なった。
マブチの丘に南洋桜が咲き誇る来春、子供達への大きなプレゼントが待っている。
こうしてザビエル高校は今正に、真の『マブチスクール』となったのである。

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このブログでも何度も紹介している、ザビエル高校は、男子生徒は全員、寮に入る事を義務付けている。9月5日から始まる新学年を前にして、男子生徒が全員寮に入った。我が息子・三男坊のヒロミもこの31日に、不安と希望を胸に入寮した。寮と言っても日本人の常識をはるかに超えた簡素なものである。
大きな建物の2階に若い職員の部屋があり、1階の大広間2つに、2段ベッドが軍隊式にずらっと並んでいる。ここで90人近くの男子生徒達が上下の隔てなく生活を共にする。プライベートなスペース等は全く無い。厳しい寮則と校則の中で4年間の寮生活と学園生活をおくるのだ。アメリカの学校制度であるから、9年生(日本の中学3年生)から高校生で、従って、13歳で入寮する。
1年目は幼かった子供達も、2年、3年ともまれるうちに、見違えるように逞しくなっていく。
これが『ザビエルプライド』、ザビエル高校がミクロネシアに誇る伝統である。

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8月16日の朝日新聞夕刊、『戦争の記憶』という特集記事にチュークのザビエルハイスクールが紹介された。終戦記念日を巡る特集記事の一こまである。かつて、旧日本海軍の大きな基地があったこのトラック島には、数多くの戦跡や遺構が残されており、そのなかには、60年経った今も現地社会に貢献しながら利用されている戦跡や遺構が幾つかある。モエン島の東端にあるザビエルハイスクールの建物もその1つである。海軍の通信隊基地として建築されたこの建物は、鉄筋2階のとても大きな建物で、アメリカ軍の空襲で直爆弾も受けたにも関わらず、ビクともしなかった。当時、日本時代の遺構は構わず取り壊していった米軍にとってもこの建物だけは手に負えず、モエン島の東の岡の上にそのまま残された。
終戦直後は進駐して来た米軍の宿舎としても利用されたが、間もなくカトリック教会の手で、高校として
の道を歩む事となり、現在に至っている。
この建物は、馬渕建設によって建てられた為に、この場所をチュークの人たちは今でも『マブチ』と呼び、この高校を、『マブチスクール』と呼んでいる。
日本の技術者20名と数百人もの現地人の手によって、2年の歳月をかけて建設された。
建設機器は全く無く、全てが現地人の労力でまかなわれた。
当時、この建物の建設に従事していた現地老人の話によると、工期中の2年間、全く報酬は与えられず、食べ物さえも与えられなかったと言う。戦争の逼迫した中で建てられたとは言え、その処遇は現地の人たちにとっては耐え難い苦労であったと思われる。
そんな、彼らの血のにじむような努力が、ミクロネシア随一の高校として今、花開いている。
老人の家は、ザビエル高校に通じる海岸道路の上の方にある。
朝夕、生徒達が学校に通う姿を見て、きっと当時の苦労を思い出しているにちがいない。
ありがとう! チュークの老人達・・・。

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ザビエル高校に2台目のバスが到着した。
先月の1台目に引き続き日本のボランティア団体から贈られた物だ。
ザビエル高校には、ミクロネシア各地の国と地域から生徒達が集まっている。
男生徒は全寮制で、女生徒は島の民家にホームステイして、毎日10~15キロの道のりを通ってくる。
ミクロネシアの中では随一と評される高校であるが、生徒の通学などの交通手段に関しては、アメリカの教育諮問機関からも忠告がなされていた。
これまでは、トラックの荷台に鈴なりの状態で、デコボコの山道を揺られながら通っていた。
時には嵐に会いずぶぬれの状態で・・・、そしてまたあるときには、カンカン照りの中を埃にまみれながら学校に通っていたのである。そんな中、1台目のバスが到着し、早くも学校の行事に生徒の輸送にと大活躍だ。卒業式も終わり、今週で学校の全ての行事が終了する。
9月の新学期からは、日本から贈られたこの2台のバスが生徒の輸送と学校の行事にフル回転することになるだろう。新学期から新しいバスを使える事ななり、生徒達も、学校の関係者もとても喜んでいる。
正に『大車輪の活躍』でる。
日本の関係者の皆さん、本当にありがとうございました。

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イースターの復活祭に沸くザビエル高校に、本日、日本から大きなプレゼントが届いた。
生徒達が待ちに待っていたスクールバスだ。
ミクロネシアの各地から生徒が集まって来るこのザビエル高校では、男子生徒は全員寮に入る。
学校のキャンパス内で、男性職員と共に4年間の寮生活を送っている。一方、女子生徒はモエン島内の各家庭にホームステイをし、学校のスクールバスや、トラックなどで毎日通って来る。ところが、このスクールバスが曲者で、なかなか思うようには動いてくれない。エンジンも押しがけで、いつも始動するときには生徒達が大勢でバスを押してやっとかかる始末である。このバスがまた凄いポンコツで、中の座席ときたらそこら辺に放置してある廃車よりもひどい状態である。しかも、学校は島のはずれの岡の上にあり、悪名高いチュークの悪路の中でもさらにひどい山道である。そんな道路を学校の行事に、女生徒の搬送にと、毎日・毎日、息も絶え絶えの状態で走り続けている。

去年の4月、山内保憲という1人のクリスチャンの男性がこのザビエル高校に赴任してきた。そしてその半年後、彼の母・山内敬子と叔母の白羽照代が、息子の慰問にザビエル高校を訪れた。お二人もまた敬虔なクリスチャンである。2人は毎日学校を訪問し、学校や生徒達との交流を深め楽しい数日間を過した。
そして、この愛すべきポンコツバスの窮状を目に焼き付けて日本に帰って行ったのである。こうしてこのポンコツバスの話と写真は、2人の土産話として彼女達の歩くところには必ず顔を出す事となった。

そんな矢先、照代さんの大学の同級生のご友人から、バス寄贈の申し出を受ける事になったのである。
話はトントン拍子に進み、"Friends in Japan of Xavier High Scool"の設立とあいまって、イースターに向けての、『スクールバス復活』の活動が始まった。その間、関係各位の親身な努力とご協力に助けられ、また、チュークへの輸送に当たっては、協和海運のご理解とご協力も得て、3月末には一号車が
横浜の埠頭を旅立って行った。
こうしてキリストの復活に合わせて生徒達に夢を運ぶスクールバスが今復活したのである。
5月には2号車の発送に向け、"Friends in Japan of Xavier High Scool"の活動がまた始まっている。

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