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先週の土曜日、我々が住むモエン島の裏側を散策した。
島の最南端から南側を通り、島の北東端のザビエル高校まで3時間ほどの行程を歩く。

日本時代にはあった一周道路も今はなく、半ばジャングルと化している。
今回のメンバーは、日本からやってきた青年海外協力隊の若者たちと私達夫婦の総勢6人。
親睦と運動と気晴らしを兼ねた楽しいハイキングだ。

しばらくは、車もやっと通れるかどうかの村々の道をのんびりと歩いて行く。
屈託のない島人達の明るい掛け声が村のあちこちから聞こえてくる。
我々が島裏を縦断すると聞くと一応に驚いた様子で、中には呆れた顔をしている人たちもいる。
何を好き好んで、こんなところを歩くんだ、、、と言うところか・・・。

空気はうまいし、小鳥のさえずりを聞きながら、南国の緑の中を歩くのはとても気持ちがリラックスするのをおぼえる。

点在する村々を抜けると、いよいよ道なきジャングルに差しかかる。
木の根や岩を足がかりにアップダウンの続くケモノ道を歩いて行く。
山の急坂を登ったっところにいきなり民家が現れた。
声を掛けても返事が無い。
近所の家に出かけているようだ。

ちょっと下がったあたりの民家で休ませてもらい、待望の椰子の実休憩。
早速、住人にお願いして、椰子を取ってもらう。
山で飲むもぎたての椰子の味はまた格別で、本当にうまい。
この椰子が楽しみで、一同、飲みたい水もがまんして歩いてきたほどだ(笑)

山で働く子供達、伝統的な食糧作りに励む老女、パンノ木を刳り貫いて建造中のカヌー、島の風習や生活ぶりに触れ、
また日本時代の戦跡を訪ねたり・・・と、盛りだくさんの島の散策だった。

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チューク環礁はかつての日本時代、トラック島と呼ばれ日本有数の軍事基地が置かれていた。
写真に紹介したこの高射砲たちは、当時、春島と呼ばれたモエン島のとある山頂にある。
この山は、竜がくねったような山容を呈しているところから竜王山と名づけられた。
日本時代にはその竜の背に、ふもとの海岸から山頂まで軍用道路が通じていた山である。
終戦から65年経った今、その道路もほとんどがジャングルにのまれ、山頂付近の高原地帯にのみわずかに当時の面影を残すのみである。

先週の土曜日、日本から来た友人を誘って、妻のカオルと3人で山頂を目指した。
蛮刀片手にジャングルの急坂を上ってゆく。
およそ1時間後、視界は一気に開け溶岩台地の高原に出た。
眼下にはトラック環礁が360度のパノラマとなって開けている。
高原とジャングルを歩くことさらに1時間余り、目指す高射砲陣地に到着した。
標高は250~280mの広い高原地帯だ。
かつての日本時代、250人の高射砲陣地部隊が2年間の長きに亘って駐屯していたところである。

山を刳りぬいて造られた2つの砲台には、巨大な大砲が2門、豪の入口から眼下の海を睨んでいる。
山頂に広がる高原地帯には高射砲が5門、当時応戦したままの恰好で、今も空をにらみ続けている。
そして山頂付近の道路のそばには、大砲の基部と取り付け基盤、砲身と砲弾格納箱が、
今しがた荷降ろしを済ませ、あたかも組み立てを待つかのように、高原の草の中に座っていた。

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久し振りに登山に行った。
今日は、普段の軽いハイキングと違い、本格的な登山だ。
まずはモエン島の最高峰であるトノッケン山の山頂を目指し、そこから島を南北に延びる尾根伝いに縦走しようと言うものだ。
トラック病院のパーキングに車を止め、病院裏からいきなり尾根伝いに歩き始める。
しばらくは民家のあるところを通って行くが、海抜50mを過ぎたあたりから、いきなり崖をよじ登る
コースとなる。

今日のメンバーは、いつものハイキング仲間のご婦人たち3名と若いお兄さん、それに私の5名。
3名のご婦人はいずれもかなりの年齢の方達だが、これが若い者顔負けの足達者で、転げ落ちるような急坂も、路なき路のジャングルもへのカッパ、とにかく元気なのである。

私が蛮刀片手にブッシュを切り開き、ひたすら山頂目指して、路なき路の熱帯のジャングルをよじ登る。
登ること2時間余り、ついに山頂に到着だ。
その絶景は息をのむばかりで、これまで多くのチュークの景色に接してきた私も、これほどの絶景にはお目にかかったことはない。
それもそのはず、ここはモエン島最高峰のトノッケン山頂なのである
しかも山頂の岩山の付け根には、トンネル状の日本軍の防空壕まであった。
話には聞いていたが、まさかこんな山のてっぺんにあるとは夢にも思っていなかったので、
これまた感慨ひとしおである。
丈夫な蔦蔓(つたかずら)をダブルにしてザイル代わりに山頂の岩山によじ登る。
ちょっとしたロッククライミング気分である。

天上からの絶景を堪能した後、いよいよここから、急峻な山頂の縦走をスタートする。
尾根の両側はいずれも100~200の断崖絶壁である。
ブッシュで尾根の地肌が見えないところもある。
一歩誤ると一気に転落していきそうな縦走路を慎重に歩いて行く。

それでも所々にゆっくりと休める場所もあり、そういう場所では小休止して、
尾根を渡る風に英気をもらう。
正午、2人3人がやっと座れるくらいの痩せ尾根に腰を下ろし、涼風に吹かれて弁当を広げる。
眼下には、モエン島の東西の景色が同時に見下ろせる。

そして午後から更に3時間。
崖、ブッシュ、ジャングル、急峻な尾根、そして天上の遊歩道、古代人の遺跡、高原、等々、
変化に富んだ7時間にも及ぶモエン島の屋根の縦走は無事に終了した。

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今日は久しぶりに、山歩きをした。
山頂に向かう途中のジャングルの中にも、方々に民家が点在している。
山中で暮らす人々を訪ねるのもまた楽しいものだ。
草原の尾根からの眺めは特に素晴らしく、稜線をなでる風が疲れた体に気持ちがいい。
天気にも恵まれ、さわやかなハイキングとなった。

目指す山の山頂には日本時代の神社跡(春島神社)があり、
その周辺の山中には、当時の守備隊の墓地が2つある。
かつて、20年ほど前に、日本からのお客様を何度かご案内して訪ねた場所でもある。
1つはこの辺一帯に駐屯していた松本連隊の墓地。
これは何度も行っているのですぐに分かったが、もうひとつの墓地がなかなか見つからない。
トラック神社跡の近くという記憶はあるのだが、何せ20年も前のことで、ジャングルを搔き分け搔き分け
探したもので、今となっては記憶も定かではない。

第六防空隊という部隊で、空港周辺の防備に当たっていた部隊だ。
本部跡は今も空港そばの裏山に沢山の遺跡が残っており、支部隊のお墓がこの春島神社跡の近くにある。
かつて、厚生省の遺骨収集の際に、墓地は発見されたが、時間が足りなくて遺骨収集を断念した経緯がある。その数年後に関係者がいらしたときも、とうとう発見できずに、神社跡で慰霊祭を行った。
この第六防空隊については、私も何度か春島内の部隊跡をご案内した方達だったので、今日は何とかしてその墓地を見つけ出したい、という気持ちがとても強かった。

そして、今日。
松本連隊の墓地を後にして春島神社に向かうジャングルの中、突然現地の案内人が、ジャングルの草むらを指さして、『ペイヤス! ペイヤス!』(お墓)と叫んでいる。
聞くと、ここに当時の日本人のある部隊のお墓があると言う。
彼は以前、このあたりを歩いた時に老人に教わったと言っている。
そこには、私が関係者から何度も聞いていた小さな石積みの跡がきれいに残っていた。
状況的に見て防空隊のお墓であることに間違いない。
現地の案内人が、蛮刀を使って周りの木々やブッシュをきれいにしてくれる。
石垣の全貌が見えてくるにつれて、かつてご案内した防空隊の方達の無念の表情が昨日のことのように思い出されてくる。
この下に、60数年前彼らと生死をともにした戦友達が眠っているのだ。
場所を脳裏に焼きつけ墓地を後にした。

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トラック環礁はかつての日本時代、海軍の一大基地となっていた。現在の中心地モエン島もその1つで、日本時代は春島と呼ばれていた。この島の東端の小高い山頂には日本時代の灯台が立っている。
もう今は使用されてはいないが、建物は当時の姿そのままに残っており、そこに立つと今も広いトラック環礁を一望に見渡す事ができる。日本時代の春島の名前を取って、この灯台は『春島灯台』と呼ばれていた。先日、仕事の合間を縫って、久し振りにその灯台に登って来た。ノンビリと半島の集落を散策しながら山間の路に入ってゆく。当時はふもとの海軍桟橋から山頂の灯台まで軍用道路が通っており自動車で登れた道だ。灯台の下には、今もドイツ時代の大砲が残っている。胸突き八丁、長い灯台の取り付け階段を登りきると一気に展望が開ける。真東には北東水道が外洋に向って大きく口を開けている。かつて、戦艦大和や戦艦武蔵などの艦船群がここを通ってトラック環礁に入ってきた。春島灯台は、日本海軍の艦船の道しるべとなった灯台だったのである。そして、2日間で述べ1200機にも及ぶ米軍の猛攻激を目の当たりに見てた灯台でもあった。今は時折訪れる観光客や学校の生徒達の格好のハイキングコースとなっている。

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ウィティポン山の山容と頂上から見下ろす景観の素晴らしさについては、前回のブログですでに皆さんにお伝えしたばかりだが、実はこの山には、もう一つの隠された顔がある。日本時代、竜王山と呼ばれていたこの山の山頂付近には、第一級の戦跡が残されている。
海抜標高280mのこの山は、東側の海岸から頂上まで、なだらかな斜面が続く溶岩台地になっている。
日本の統治時代には、海岸から頂上まで軍用道路が続きその道路沿いには、日本軍の様々な基地が設けられていた。頂上まで広がる草原の周囲は、断崖絶壁となっており、絶好の砦となっている。
そこには今も尚、数多くの高射砲や大砲が当時の姿そのままに空をにらんでいる。
この山頂には、海軍の高射砲陣地があり、当時250人の兵隊達が2年半に亘って駐屯していたのである。
山頂に向う3つの草原には当時の道路跡が巨大な蛇のように山腹をうねっているのがわかる。
草に隠れた壕があちこちに散在し、注意しないとうっかり壕の中に転落したりする。
岩盤を刳り貫いた弾薬庫や防空壕。
崖の壕から海をにらむ大砲。
今しも火を噴きそうに空をにらむ高射砲の数々。
あたかも取り付け途中と思われる、草原に横たわる真新しい砲身。
草原から顔を出し空をにらむ砲身を見ていると、今にも日本兵が飛び出してきそうな錯覚におそわれる。60年前の激戦の模様を彷彿とさせる光景だ。

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以前から、時間があったら是非登ってみたい山があった。名前をウィティポン山と言う。私達が住んでいるチュークのモエン島にある小さな山で、海抜標高280mの溶岩台地の山塊である。私がチュークにやって来た始めの頃、もう25年程前に一度登ったきりで、その後はずっとご無沙汰していた。今回、5月のツアーからもやっと開放されて、少し時間が取れるようになったので、早速、有志の日本人6名でハイキングとしゃれこむ。予定の時間から1時間遅れて、午前10時、ザビエル高校の丘を出発する。
日本時代は、海岸からこの山の頂上まで軍用道路が開けていたが、今は登山道すら無い。時折、現地人が通る踏み分け路を、先導者が蛮刀(ばんとう)片手に草を切り開きながら進んでゆく。ジャングルを抜けると一気に草原に出る。玄武岩質の溶岩で出来たこの台地状の山は、下から段々に3つの草原から成っている。海からの爽やかな風を受けながら歩くこのコースは涼しくてとても気持ちがいい。
特に頂上近くの草原は、周囲を断崖絶壁に囲まれ、眼下に環礁の絶景を眺めながらの、天空の遊歩道と言ったところである。まるで、遊覧飛行のような景色が次々と眼下に広がってくる。みんなお腹の空いたのも忘れて眼下の絶景に見とれている。ザビエル高校を出発してから4時間半、ベースのザビエル高校に帰ってきた。南の島のハイキングは、つかの間の夢の世界への旅でもあった。
明日は、このウィティポン山のもう一つの顔を紹介しよう。

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