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久しぶりにアメリカのクルーズ客船が入った。
お客様のほとんどがリタイアピープルでご年配の人たちが多い。
世界中のいろんなクルーズを行っている中で、今回はミクロネシアのスペシャルクルーズだ。

チュークならではの沈船ダイビング、シュノーケリングではサンゴや魚のポイントの他に、沈船や飛行機も人気が高い。
離島でのバードウオッチングや戦跡巡りのハイキングなど、海に山に元気な老人パワーがさく裂した1日だった。

ローカルスタッフたちもランチをご馳走になり、普段では味わえない料理に大喜びで、何度も何度もお替りをしていた。
かく言う私たちも久々に上品な美味しいランチを頂いてウハウハの1日だった。
手配もスムーズに行き、クルーズ船のスタッフにもとても喜んで頂いた。

今夜は心地よい疲れが熟睡を誘ってくれそうだ。

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 太平洋戦争時には連合艦隊の本拠地が置かれ、戦艦「大和」「武蔵」が碇泊したことでも知られるトラック諸
島(現・ミクロネシア連邦チューク州)。
この度、同地を訪ねる5 泊6 日のツアーが開催される。
案内するのは、元産経新聞記者で、『キスカ島奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯』などの著作で知られる将口泰浩氏。
㈱JTBコーポレートセールスが参加者を募集する。
 将口氏には、戦前にトラック諸島に渡り、漫画「冒険ダン吉」のモデルにもなった森小弁に関する著作『「冒険ダン吉」になった男 森小弁』がある。
取材経験もあるトラック諸島のツアーについて、「連合艦隊泊地の施設や夏島小学校など、かつての日本の面影が色濃く残ります。『キンロウホウシ』『ココロ』などの日本語が通じる親日国で、日本とは何か、日本人とは何かを問いかける旅にしませんか」と話している。
普段はなかなか足を運ぶことができないトラック諸島を、この機会に訪ねてみてはいかがだろうか。

Point❶ 現地取材経験がある将口氏が、丁寧に解説!
Point❸ 世界有数の親日国ミクロネシアの美しい風景も見どころ
Point❷ 零戦基地や「武蔵」係留ブイ見学など、特別な内容!
訪問予定地…旧日本軍飛行場(現チューク国際空港)、旧日本軍水上基地跡、神社・仏閣など当時の町の跡、座礁船や沈没船。

募集要項
行程…2017 年9 月24 日(日)成田空港から出発。グアム経由でチュークへ

5 日目=チュークからグアムへ

6 日目=航空機直行便で成田へ
旅行代金…1 名様396,000 円(燃油サーチャージ・空港税含)。
備考…募集人員:25名様。最少催行人数は10名様 宿泊:チューク/ブル
ーラグーン グアム/プラザホテル 食事:朝食4回、昼食2回、夕食3回

旅行企画・実施:株式会社JTB コーポレートセールス
観光庁長官登録旅行業第1767 号 一般社団法人日本旅行業協会正会員 
〒100-6051 東京都千代田区霞が関3-2-5 霞が関ビルディング12 階
TEL:03-6737-9361 FAX:03-6737-9365

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周囲220キロの広大なチューク環礁には、約100個の島々がある。
その中で人が住んでいる島は20島、他は全て無人島である。

写真のシャークアイランドもその1つで、数あるチュークの無人島の中でも海・島の綺麗さではトップクラスに位置する。
ダイビングやシュノーケリング、写真撮影にと、日本人観光客にもとても人気の無人島だ。
そんなシャークアイランドだが、唯一の難点は上陸がとても難しいことだ。
周りをサンゴが埋め尽くし、丸い小さな島の周りはいつも瀬波が海岸を洗っている。
そのためにボートが波打ち際まで入っていけず、泳いで上陸することも難しい。

先週、無人島撮影のお客様がいらっしゃって、しかも海も凪いでいたので久しぶりにシャークアイランドに上陸する事が出来た。
しばらく上陸していない無人島やビーチには、長い間に波に洗われて綺麗な貝殻やサンゴがそこかしこに転がっている。
お昼の休憩もそこそこに、早速、小さな島を一周してみた。
2~3歩歩く度に、まるで拾ってもらうのを待ってたかのように、貝殻がそこかしこに転がっている。

素敵な可愛い海からの贈り物だ。

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1944年2月17日、トラック諸島(チューク)。
数多くの沈船が眠る中で、アメリカ軍の猛攻を受け全滅した悲劇の船団がある。
トラック島に残っていた民間人を運ぶ最後の引揚船とその護衛の船団である。
船団の旗艦は巡洋艦・香取(かとり)。
多くの遭難者を救助し、最後まで戦った巡洋艦・香取もまた太平洋の海の藻屑と消えた。

香取で戦死した叔父の慰霊のため1人の女性がトラック島を訪れた。
神奈川県在住の小川英子さん・67歳。
元・職業軍人の長女として生まれ、父からの教えを啓示として生きてきた。
戦死した叔父もまた弟として父の背中に憧れ軍人を目指し、一等機関士として巡洋艦・香取に乗り込んだ。
父は弟の戦死通告を受けたものの、南方洋上とあるだけでその戦没地は不明のままであった。

父の死後、神奈川県が沖縄で戦没者慰霊の事業を行っているのを知り、父と叔父の無念を晴らすべく毎年その慰霊事業に参加した。沖縄なら叔父の戦死した南方洋上が望めるだろうと言う気持ちからであった。
そんな矢先、厚労省で戦没者の確認ができることを知り、早速問い合わせると、叔父の詳細な戦歴と戦没地の記録が届いた。叔父は1944年2月17日トラック島で巡洋艦・香取の乗組員として戦死していた。

矢も楯も堪らずトラック島に旅立った。
香取が眠るトラック環礁の北水道。
洋上慰霊を行い、北水道にある北島(現地名・ピス島)に立ち寄る。
叔父はこの北島のすぐ傍に眠っているのだ。
元気なうちにもう一度、叔父に会いに来たいが、果たしてどうなることやら先の事は解らない。

純粋な島人達と触れ合い、かわいい赤ちゃんの姿を目にした英子の胸に、ある思いが沸々と湧き上がってきた。
この子に託そう!
小さな貝殻で作った首飾りと交換に、自分の首から金のネックレスを外し、赤ちゃんの首に掛けた。

どうか私の愛する叔父さんの事を、私に代わっていつまでも見守ってあげてね・・・。

香取が眠る北島の海、叔父が辿った死出の道を、ボートは現実の世界へと戻っていった。

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70数年前の太平洋戦争。

開戦の翌年には連合艦隊司令部の前線基地となったチューク環礁(トラック島)には、戦艦大和・武蔵をはじめとする、100隻に近い日本海軍の連合艦隊と輸送船団が集結した。
そして、昭和19年2月17日、トラック島はアメリカ軍による未曾有の大空襲を受ける。
環礁内に残された輸送船団、護衛の艦船など、80隻あまりが今もトラック環礁の内外に沈んでいる。

そんな沈船の一つに、『文月』(ふみづき)と言う駆逐艦がある。
沈船の多くが輸送船と言う中で、わずか2隻しかない戦闘艦の中の1隻だ。
トラック環礁の中央部、40m程の海底に船体をねじるように沈んでいる。

その『文月』の船上で慰霊祭を行いたいと言うご家族がいらっしゃった。
父が『文月』の軍医であったという長谷川さんご一家だ。

父・長谷川豊男は、初陣から文月の軍医長として乗船した。
ラバウル、ソロモン、ブーゲンビル、ガダルカナルなど、幾多の戦闘に参加し
数多くの戦友たちを死の淵から救い出し、またなすすべも無く見送った。
激闘の最中、今にも沈まんとする薄暗い艦内で丸一昼夜、不眠不休で一滴の水も口にせず次々と運ばれてくる重傷兵の治療に当たった。
受けるも地獄、治療を施すのも地獄の永遠の時間が流れる中、純白の軍医装は血と油でドロドロになっていた。
艦が窮地を脱した時、『軍医長、ご苦労様でした。神様のように見えます。』
上官の一言が心にしみた。

『文月』は激闘の傷を癒す為、トラック環礁に入港した。
修理の為に主機関を停止したままの駆逐艦にアメリカ軍の集中攻撃が始まった。
断腸の思いで、戦死者を機関室に残し、重傷兵達を伴い命からがら艦を脱出した。
その後幸運にも恵まれ、奇跡的に日本に帰還した。

『2月17日は、もう一つの俺の誕生日だ。』
父は娘たちにいつもそう言い聞かせていた。
多くの戦友たちの命も助けたが、それにも増して、多くの命をなすすべも無く無念の思いで見送ってきた。
戦争を通じて医師としての責任感と義務感が後の長谷川豊男の人生を支えた。
晩年まで大病院の院長として医術の道に一生を捧げ、今また戦友の下に旅立って行った。

飲んべえの父娘は、生前よく酒を飲み交わした。
『お前なら俺を太平洋に・・・。』
父の遺言とも取れる言葉が脳裏をかすめた。
長女・千代はトラック島の慰霊を思い立った。
父の遺骨を『文月』に納めてあげよう・・・。

生前、父と親交のあった静岡のダイビングショップ・石塚さんにツアーの手配と現地での慰霊祭をお願いした。
彼は、由緒ある神社の神主でもあり、ベテランダイバーで、これまでも幾度と無くトラック島を訪れていた。
今回の慰霊行には最適の人物だった。
そんな石塚さんに現地のガイド・末永を紹介された。
なんと末永は『文月』の発見者であり、かつて父が慰霊でトラック島を訪ねた時のガイドでもあった。

彼らの手で、父・長谷川豊男の遺骨は、『文月』の艦内奥深くに帰って行った。

『本当にこのタイミングですべてが完結したかのようです。』

父の無念の想いと第二の誕生日となった『駆逐艦・文月』への想い。

長女・長谷川千代さんから届いたお礼の言葉に父への愛情が溢れていた。

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フィリピン・レイテ沖に沈む戦艦武蔵が発見され、その戦艦武蔵・戦艦大和の両艦が並んで停泊していたトラック環礁・・・。
マニアの方達にとってこの海域は一度は訪れたい聖域でもある。

今年の夏、そんな大和・武蔵をトラック島の艦隊錨地に浮べるべくやって来た自称・艦コレの村上さんと渡辺さんお2人。
その夏の訪問時は台風の来襲に遭い、さすがの大和・武蔵も大荒れの艦隊錨地で轟沈。
http://blogs.yahoo.co.jp/pocosuenaga/63275293.html

そしてこの秋、再び戦艦大和・戦艦武蔵をトラック島艦隊錨地に浮べるべく満を持しての再訪となった。
春島水上基地跡をボートで出発。まずは日本時代の中心地だった夏島に向かう。
途中、夏島南方のトラック軍港外港に大和と武蔵を浮かべる。
そして春島をバックに連合艦隊錨地に浮かぶ巨大戦艦・大和と武蔵。

70年前の雄姿がよみがえる。

今回のトラック島訪問には、大和・武蔵の両艦を艦隊錨地に浮かべる事の他に、トラック島の戦跡を訪ねる中で最大の目的が、連合艦隊司令長官・山本五十六の官舎を訪ねる事。
国内における五十六ゆかりの地を走破した2人にとって、山本五十六は師とも神とも仰ぐ聖人。
長官官舎は是が非でも見ておかねばならない聖地である。

30年間の日本統治時代の中心地で海軍の一大基地があった夏島(デュブロン島)。
当時の港町から上陸して、岡の上に登っていくと最上部のジャングルの中にその館は眠っている。
木々に隠れた連合艦隊司令部の正門を見つた2人は、現地人の持っていた蛮刀を手に取り、ジャングルにうずもれていた正門から館に続く長い見事な階段を復元させた。
山の斜面に続くその階段の一部は日本庭園に向かう。
そしてその先に山本五十六が住んでいた長官官舎が姿を現した。
重厚な鉄筋コンクリート造りの建物。
裏手に廻るとジャングルの中にタイル張りの風呂場跡やキッチンの跡、さらにその奥には日本庭園の跡が垣間見える。
眼下には、当時の夏島の町並みとトラック軍港、竹島飛行場が一望に広がる。
五十六が毎日目にしていた光景だ。

艦隊錨地に浮かぶ戦艦大和と武蔵、連合艦隊司令長官・山本五十六の官舎、日本海軍の頂点を極めたこれらのものを目の当たりにして、両人の心はいやが上にも高ぶる。

日本海軍の雄姿をもっともっと極めたい・・・。
早くも2人の心の中には3たびトラック島訪問の想いが駆け巡る。

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今年は終戦から70年の記念すべき年。
そして、日本統治時代になって丁度100年を数える。

トラック諸島にはいち早く海軍の南洋防備隊本部が設けられ、太平洋戦争時代には、連合艦隊司令部の前線基地が置かれた。
連合艦隊旗艦・戦艦武蔵、戦艦大和をはじめ、日本海軍の艦船群がトラック礁湖に結集した。
戦艦や巡洋艦、駆逐艦、航空母艦、潜水艦、駆潜艇等、数多くの軍艦や各種母船群、タンカー、無数の輸送船などなど、、、その数100隻に及ばんとした身震いのするような壮観な眺めを、現地老人達が述懐する。

今年になってフィリピン・レイテ沖に沈む戦艦武蔵が発見され、世界に誇る大和・武蔵の巨艦が一躍脚光を浴びる事になった。
その僚艦が並んで写っている唯一の写真が、このトラック環礁(艦隊錨地)で撮影されたものである。マニアの方達にとってこの海域は一度は訪れたい聖域でもある。

今月、そんなマニアの方2人がトラック島を訪れた。
太平洋戦争や戦跡に造詣が深く、しかも大の戦艦マニアで、今回、500分の一の戦艦武蔵・戦艦大和の精巧なモデルを大事に抱えてきた。
むろん、あの錨地に浮かべるためである。

ところが現地は、おりしも台風の真っ只中。
荒れ狂う艦隊錨地で、さしもの大和・武蔵も操船むなしく大嵐の中に轟沈してしまった。
果たして、意気消沈と思いきやさにあらず、益々意気盛んで、見残した戦跡と共に、
再度、両艦を浮かべるべく挑戦すると言う。
今回は私も忙しくお手伝い出来なかったので、次回のご訪問は私にとってもリベンジである。

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この10年ほど毎年チュークを訪れている松田さんご家族。
メンバーは年によって様々だが、去年、今年と大人3名での訪問だった。

大のチュークファンで、1週間のスケジュールの半分は無人島・オローラ島滞在だ。

沈船ダイビングにリーフダイブ、無人島巡りに戦跡巡り、素朴な島の生活や戦跡を訪ねてのトレッキング、、、等など・・・。
一般の観光客には到底まねの出来ない、とてもディープなアクティビティーを毎年楽しんでいる。

そんな松田さん一家にとって、3ヶ月前にチュークを襲った台風は、とても他人事ではなかった。
早速、困っている現地の子供たちにと、沢山の心のこもった物資を援助した。

そして、この6月、台風の痛みも和らいだチュークをいつもの3人で訪れた。
台風は、陸上だけでなく、海にも大きな影響を残していた。

“定宿“のオローラ島をはじめ、その他の無人島には100mにも及ぶサンゴの砂浜が新たに出来ていたし、チューク環礁のそこかしこに、新たなサンゴ砂の島が出現していた。
なんとこれら全てが1夜のうちに出来たと言うのだから驚きだ。

好奇心旺盛な3人。
この新世界を見ずにおくものかと、さっそく、海の探検に出かけた。
前人未踏のサンゴの島。
そこには数々の海の宝物達が松田さんたちの到来を待ちかねていた。

チュークを愛し、チュークの子供たちに愛の手を差し伸べた、松田さんご家族
に対しての、海の恩返しだったのかも知れない。

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