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          台風後の初収穫

3月末にチュークを襲った台風から丁度半年が経過した。
椰子の木以外は裸同然だった山々にも緑が芽吹き、旅人の目には災害などまったく無かったような緑の島に戻ってきた。
マンゴーの木やパンの木なども少しずつ実を付け始めた。
そんな矢先、台風前にはいつも目にしてた光景が突然目の前に現れた。
パンの実を落とす長い棒を持った少年の横で、大きく熟したパンの実の束を重そうに肩に担いで歩くお兄さん達。
料理に使うタロイモやパンノ木の葉っぱを大量に持って、一緒に歩いている子供たち、、、。
いつもの週末に見かけていたチュークの風景だ。
今年はもうあきらめかけていたパンの実の収穫が、6ヶ月の長い時を経て、またチュークに戻ってきた。
今年もまた、きっといいクリスマスが迎えられそうだ。

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3月末の台風災害におきましては、日本の皆様から多大なご援助を受け賜りました。
お陰様で島の人たちにも従来の明るさが戻ってまいりました。

国家間レベルでの援助は未だ続いてはおりますが、弊社でお受けしておりました個人レベルでの援助の受付は5月末日を持ちまして締め切らせて頂きます。

現地政府、島の方達に変わりまして厚く御礼申し上げます。

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台風が去ってから間もなく1ヶ月・・・、島からお米が消えてしまった。

パンの木やバナナが全滅し、今は、ライスや小麦粉、ラーメンなどが被災者たちの大事な食料となっている。
ところが島の食料ストックには限りがあり、とうとう島のストアからはライスが消えてしまった。

しばらく貨物船が入る予定も無く、、、さあ、どうなることか・・・

頼りはタロイモと古パンモチ・・・か。

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先の台風で、日本時代の貴重な建物や記念物が危機にさらされている。

1914年・大正4年、今から丁度100年前、現ミクロネシアは日本の統治地となった。
日本からの多くの移民者達が夢を抱いて南の島を目指した。

占領と同時に南洋群島軍司令部が置かれ、大正天皇の即位を記念して大きな運動公園が造成された。
そして間もなく運動公園そばには、現地人対象の立派な小学校(公学校)もできた。
それに伴い、多くの現地人達が日本人社会で働いたり日本語を学んだりして、現地人達の間にも日本人としての意識が徐々に高まっていた。

そんな折の1928年(昭和3年)9月、高松宮殿下がトラック島をご訪問された。
その時の宮様お手植えの樹が今も運動公園傍に立っている。
そして、宮様お手植えの樹と対峙するように公園の向かい側には、同じ日に植えられた
巨大なマンゴーの樹が仲良く公園を見渡すように立っている。

ところが今回の台風Maysakで、このマンゴーの樹が倒壊し、公学校の建物も大きな被害を受けた。
日本時代に建てられ90歳を超える公学校の校舎は、今も島の役所として使用されている。
そして、宮様お手植えの樹とお供に87歳になるマンゴーの樹。
戦渦をくぐり、幾度となく嵐や台風をくぐりぬけてきたマンゴーの樹もついに命が尽きてしまった。

幸い、公学校の方は、修復の道も残されており、今後の成り行きが気になるところだ。
多くの現地人が学んだ学校の建物がいつまでも保存されることを祈っている。

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この度の台風・Maysak災害復旧対策本部の会議にて、日本からの援助物資受け入れ窓口が、下記のように決定いたしましたのでお知らせいたします。

台風Maysak災害援助チューク政府指定日本人対応窓口

For Chairman
Chuuk State Emergency Central Communittee
Typhoon Maysak
C/O Takayuki Suenaga
P.O.BOX 447 Weno Chuuk State F.S.M 96942
ミクロネシア連邦

お問い合わせは下記まで

TEL:691-330-3801
携帯電話:691-930-7132
E-Mail::Suenaga@mail.fm

通信も途絶えたままで、離島の被害状況が未だ把握できて降りませんが、島の人たちは笑顔を絶やすことなく懸命の復旧作業を行っております。
皆様のご支援をお待ち申し上げております。

州政府災害対策本部日本人窓口より。

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