タグ:ホームページ

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

台風Maysakが去って丁度2週間が経った。
島内のメーンロードは倒木も整理され、車も走れるようになったが、
街から遠い村々ではまだまだ電気も電話も不通のままだ。

特にパンの木やバナナが全滅し、自給自足の生活がメーンだった人たちにとっては、家も無く食べ者も無い深刻な状況となっている。
そんな中で、大きな力となっているのが現地に根ざしたボランティア活動だ。
小さな島国だが現地にもいくつかのボランティア団体があり、普段から様々な活動を行っている。

今、彼らが最も力を入れているのが被災者たちへの食糧援助だ。
ただし、海外からの支援でもなければ、お米やパンでもない。
チュークの伝統食の1つであるタロイモだ。
タロイモはパンの実と並んで、チュークの最も重要な食料である。

パンの木とバナナはほぼ全滅したが、タロイモは地下茎なので左程でも無い。
だが、塩害にあったり、強風で茎が折れたりしたタロイモは、2~3週間で芋がだめになってしまう。
今、そのようなタロイモを大量に掘り起こし、食糧難にあえいでいる被災者たちに配布しているのが、彼らボランティアの大きな活動の1つである。

海外からの援助に頼らない、現地ならではの的を得た援助活動だ。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

+
台風一過から1週間。
十分な機材も何も無い中で、懸命の復旧作業が続いている。

イメージ 1

イメージ 2

3月29日・日曜日、台風4号(Maysak)がチュークを直撃した。

最大風速50mの強風が島々を駆け抜けた。
台風一過から2日間が経過した現在でも、電気、電話、インターネットは不通のまま。
多くの家屋が倒壊し、頼みのパンの木、バナナなどの現地食は壊滅状態にある。

飛行機も4日ぶりに到着した。
1日も早い復旧を祈っている。

今このブログは、飛行場前のホテルから発信している。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

太平洋戦争時、日本海軍の有数の基地だったここトラック島(チューク)には、沢山の日本軍の艦船が沈んでいる。

トラック環礁内だけでもその数40隻に近い。
周辺の外洋を含めると80隻にも及ぶ。
輸送船やオイルタンカーをはじめ、軍艦、潜水艦、あるいは飛行機など、様々だ。

そんな沈船の1つに、戦艦大和、戦艦武蔵の世界に誇る巨大大砲の砲弾を積んだ船がある。
海軍輸送船『山霧丸・やまぎりまる』6439トンだ。
トラック環礁内・水深40mの海底に左舷を下に真横に横たわっている。
魚雷の爆発で空いた大きな穴から船内に入ると、薄暗い船倉に大和・武蔵の巨大な砲弾が水中ライトの光に浮かび上がってくる。

今も浅瀬に残る戦艦武蔵の係留ブイ、武蔵・大和の巨大な砲弾・・・。

70年前、今は亡き両艦の確かな面影をしのぶことが出来る貴重な遺物だ。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

『戦艦武蔵』発見の報がにわかに話題になっている。

ここトラック島(チューク)は、日本有数の海軍基地があったところだ。
太平洋戦争勃発の翌年には、早くも連合艦隊司令部の前線基地が置かれ、戦艦大和、戦艦武蔵をはじめ、
日本海軍の艦船が、トラック環礁に結集した。

今、インターネットで盛んに紹介されいている、戦艦大和・戦艦武蔵のツーショット写真は、
何とこのトラック島で撮影されたものだ。
昭和17年夏、トラック島の艦隊錨地のに停泊していた両艦を、戦艦長門の艦橋から撮影したものである。

当時、日本海軍のほとんどの軍艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、航空母艦がこのトラック環礁にその雄姿を見せた。

当時の艦隊錨地の近くの浅瀬には、当時、戦艦武蔵が使用していた係留ブイが今も残っている。

ゼロ戦の基地・竹島飛行場。
山本五十六、死出の場所となった水上飛行機の基地。
五十六の居住地・連合艦隊司令長官官舎。
今も天空を睨む山頂の高射砲、等々・・・。

トラック島の海とジャングルには、70年前の戦闘の跡が今も数多く残っている。

イメージ 1

イメージ 2

しばらくご無沙汰しております。

忙しさにかまけて、ついつい書き損じの日々を過ごしてしまいました。
いつも見て下さっていらっしゃる方々には大変申し訳なく思っております。
また気を取り直し、南の島の情報をお届けいたしますので、どうぞよろしくお願い致します。

つい最近、1ヶ月の離島ロケから戻ってまいりました。
パンの実とタロイモ、バナナのみの世界です。
毎日、隣の島にカヌーで行き来し、漁に出る。
外界とは全く隔絶した夢のような世界です。

また折を見て皆さんにご報告したいと思っております。

お楽しみに!!

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

去年の1月から7月まで、産経新聞の新聞小説として連載された森小弁の物語、タイトルは『ダン吉』。

その『ダン吉』が、『冒険ダン吉になった男・森小弁』と名前を変えて、新刊本として8月に刊行された。

今回の『作者と行くトラック諸島の旅』は、そんなダン吉ファンの集まりでもある。

小弁ゆかりの地を訪ね、小弁が勇躍したトラックの海を巡り、その子孫たちと交流し、夕食時には毎晩楽しい懇談が続いた。

同好の志を抱いた者たちは、早くも作者を囲んで同窓会を開こうと意気投合した。

ツアーに参加した全員が正に、冒険ダン吉になった男たち、であった。

かつて子供たちに夢と希望を与えた『冒険ダン吉』は、今もその故郷にあり、時空を超えて我々に夢と希望の何たるかを教えてくれる。

イメージ 1

イメージ 2

この度のTV出演におきましては、友人、知人をはじめ、沢山の見知らぬ方々からも、
多くのコメントや励ましのお言葉を頂きました。
家族一同、心より感謝申し上げます。

長男・邦雄(31歳)は、現在、ミクロネシア連邦大使館員として東京で働いております。
妻と女児1人の3人暮らしです。
ミクロネシアの事でお聞きしたい事がございましたらお尋ね下さいませ。

次男・友(ゆう)はハワイ大学の4年生です。

3男・海(ひろみ)は、ハワイの高校(ミッドパシフィック高校)の4年生です。

お陰さまで、皆それぞれに元気で暮らしております。

妻・かほる(カオル)は三重県出身で、ダイビングでここチュークにやってきました。
結婚して今年で25年を迎えます。

私はチュークに移住して、今年で33年目を迎えます。
日本の統治時代・32年間をやっと超えました。
自身の歴史をしみじみと感じている今日この頃です。
これまでに培ったミクロネシアの知識と経験を今後の社会に活かしていければと願っています。

今回のTV出演に恥じぬようこれからも精進して参ります。

この場を借りまして、皆様に御礼申し上げます。

皆様のご健勝、心よりお祈り申し上げます。

今後ともどうぞよろしくお願い致します。

“ キャップテン・ポコ ”こと、末永卓幸 & 家族一同

↑このページのトップヘ