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太平洋戦争時、日本海軍の一大基地があったトラック島(チューク)。
終戦の1年半前・75年前の今日、アメリカ軍による大空襲があった。

その75年目の戦没者慰霊の記念式典が、アメリカ政府と現地政府により厳かに行われた。

残念ながら日本からの参加は今年も見受けられなかった。

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太平洋戦争の終わる1年半前の2月17日・18日の両日、トラック島はアメリカ軍による未曾有の大空襲に見舞われた。
『Hailstone』作戦だ。
その名の通り、軍艦からの艦砲射撃と航空機からの爆弾、魚雷、機銃掃射など、、、空からの攻撃は熾烈を極め、トラックの軍事施設、艦船は壊滅的な被害を被った。
多くの艦船の消失と民間軍人、アメリカ人、現地人など合わせて1万人を超える人々が犠牲になった。

本日、その記念式典(慰霊追悼式)がアメリカ軍とチューク州政府によって厳かに催された。
式典の場所は『ブルーラグーンリゾートホテル』のビーチガーデン。
ここは、日本時代の飛行場があった場所でもあり、その周辺海域は日本の連合艦隊艦隊錨地でもあった。

大空襲から74年。
戦争を知らない人達だけで模様されたこの式典は、現地女性コーラスの華やかな歌声も交え、厳かな中にも和やかな雰囲気の中で執り行われた。

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ミクロネシア・チューク(トラック島)に来て、この6月で40年が経った。
人生の大半をこの小さな南の島で過ごした事になる。

最初のチューク訪問は学生最後の卒業休み。学友4人で世界の秘境を物色していた。
縁あってトラック島(チューク)に決めた。
1か月間チュークの島々を訪ねた。全く異次元の世界だった。何もかもが新鮮だった。
以後、皆で会うたびにチューク移住を語り合った。4人でチュークに移住しようと約束した。
1年たち、2年が夢と共に経過した。それぞれが故あって夢を断念し、私1人が残った。

皆にチューク移住を誓い決意した。
1978年6月、日本を全て清算し夢の世界に旅立った。

新天地での生活必需品を厳選し、12個の段ボールに詰め、船便でトラック島に送った。
港に届いた玉手箱の中身は全て霧と消えていた。
荒らされた段ボールの片隅に大好きな地図帳だけがあった。

なーに、元々ゼロからの出発だ。
ゼロの世界を選んだのは自分なのだ。

こういう世界である事を肝に銘じた。

旅行業に興味をもち、日本でもその仕事をしていた私は、躊躇なくこのチュークでも観光業を始めた。
その後、紆余曲折はあったが、幸い今も元気でこの仕事を楽しんでいる。

チューク人によく言われる言葉がある。
『スエナガ、あんたはいったい何歳なの?』 
『私が小さい時からあんたは同じ顔をしてるし、ちっとも変わんないね!』
そんな時、私は決まって言う。
『日本人は歳をとらないんだ!』

その間、無人島が何度も消滅し、何度も復活した。
かく言う私も、何度も消滅し、何度も復活した。

そして今また、その無人島にも少しずつ緑が増え、ヤシの木が実を付け始めている。

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「主人の遺骨をチュークの海に散骨したい」
過去に2度ほどチュークをご訪問なさった石束ご夫妻の奥様からそのような依頼を受けた。

ご主人が亡くなったのは平成27年12月26日の誕生日(満91歳)の夜。
恒例の白馬の山での誕生会を迎えている時であった。
真っ白に雪化粧をした白馬の山々を眺め好物のシャンパンを口にしながら「ああ白馬の山は本当に綺麗だ!」
とつぶやいた直後、そのまま白銀に輝く天国に旅立っていった。

石束ご夫妻が初めてチュークを訪れたのは2009年の春。
石束先生85歳のときであった。
飛行機のタラップを颯爽と降りてくる彼の洗練された姿は、今でも鮮明に私の脳裏に焼き付いている。
「幼少の頃からおしゃれが身についていて最後までオシャレでした」という奥様の言葉通りに、年齢を把握していた私の先入観とは全くかけ離れたものだった。
私たちは初対面にも拘わらずまるで旧知の間柄のように意気投合した。   
長いブランクがあり今回が3度目の訪問となった。
奇しくもその訪問は40年前に私がトラック島に移住した日でもあった。
そしてそれは無言の再会となった。

兵隊でもない彼がなぜトラック島に散骨を? 
2回しか訪れていない彼がなぜトラック島に散骨を?。
奥様から散骨の依頼を受けた時以来、私の頭の中にはかすかな疑問が沸いていた。

再会した奥様のお話がその謎を解いてくれた。
『主人は医師を目指し、小さいころから猛勉強をしていました。そのため医学生となったことで戦争に行くことが出来ず、そのことをずっと負い目に感じていました。戦争で命を落としていった同世代の人々に対する、深い悲しみと申し訳なさと感謝の念は本当に強いものでした。きっと今頃はトラックの海で亡くなった人々の手を握ってお礼を言って感謝していると思います』

また彼は、叔父方が海軍兵学校の教官をやっていた関係もあり、自分もまた連合艦隊司令長官・山本五十六を尊敬していたと言う。
常に純白の軍装に身を包み威厳をもって軍務に服していた山本五十六同様に、自らもまた医師たる者は!と、常にネクタイと白衣と革靴を外した事は無かった。部下にも着衣については厳しく指導した半面、「 医師としての使命を忘れず責任を持って医療に励め、好きにやってよい、自分がすべて責任をとる」と、厳しくも優しく指導した。

その山本五十六は59年の生涯最後の7ヵ月を、このトラック島(チューク)の海で過ごし、海に旅立った。
そして医師だったご主人もまた生涯現役を務め、このトラック島を黄泉の海と定めた。
『なにか、山本五十六と同じような気がしますね。五十六に会いたかったでしょうね』。

私の疑問がサラサラと1つに溶けていった。
きっと彼は白馬の銀世界からトラック島の海に還って行ったのだろう。

『散骨は本当に感激的なものでした。』
『あのキラキラ光る主人の遺骨は、主人の好きな宇宙の星のように煌めいておりました。』
『主人は京都のお寺ではなく、この大海の宇宙にいると思えるようになりました。』

『時空の割れ目からひょっこり帰って来て欲しい・・・。』

そう祈る奥様の瞳の先には、澄みきった海の中で眩いばかりに光り輝く彼の遺骨があった。

まるで太陽にきらめく白銀のごとく、驚くべき光を放ち続ける彼の遺骨を目の当たりにした時、石束嘉男はきっとこの海に居るのを確信した。

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天皇陛下のパラオ訪問がやっと実現した。

天皇陛下のミクロネシアご訪問は、現地の人たちにとっても長年の夢であった。
太平洋戦争の激戦地となったミクロネシアの海と島々には沢山の同胞達が眠っている。

今から丁度100年前、パラオを含むミクロネシア全域は、南洋信託統治領として日本の領土となった。
サイパン、ヤップ、トラック、ポナペ、マーシャル(ヤルート)にそれぞれ支庁が置かれ、南洋庁の政庁がパラオに設置されて、パラオが南洋群島の首都となった。

一方、トラック島(現・チューク)には、1914年の占領後すぐに南洋群島海軍司令部が置かれ、南洋諸島防備の要となる。
後の連合艦隊司令部が置かれる先駆けとして、早くも日本軍の前線基地として発展していく。

トラック島(チューク)には今も、天皇家由来の遺跡や遺構が少なからず残っている。
30年に及ぶ日本時代、南洋群島の軍事の要としてその重責を担っていた夏島(デュブロン島)には、占領直後すぐに、大正天皇の即位を記念した運動公園(都洛公園・トラック公園)が造営され、今も島の人たちのレクレーションの場として親しまれている。

また、運動公園の入り口には、昭和3年トラック島をご訪問なさった高松宮殿下のお手植えの樹(玉名の樹・マホガニー)と同時に記念樹のマンゴーが、その樹齢を遥かに超える重厚な佇まいで、今もトラック公園を見つめている。

そして昭和16年の開戦前夜、再度のご訪問となった高松の宮殿下をお迎えした喜びの詩を刻んだ石碑が、艦隊司令部に建立されている。

ミクロネシアが日本統治時代だった頃、日本の国語の教科書に南洋の風物詩を紹介するコーナーがあった。
『トラック島便り』と称したその読本には、南の島に赴任したお父さんが、日本に残る子供に南洋の事を教えてあげる手紙の形で紹介されていた。

天皇陛下もご幼少の頃、このトラック島便りを読んで、トラック島にもことのほかご興味を抱いていらっしゃったらしいと言う事を、宮内庁の関係者からお聞きしたことがある。

この度のご訪問が滞りなく無事に終えられることを心からお祈り申し上げる。

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チュークは、ほとんどの人たちがキリスト教徒である。
中でも、旧教のカトリック、新教のプロテスタンがそのほとんどを占めている。
日本統治が始まる100年前にはすでに、チュークのほとんどの島々にキリスト教の教会が建てられていた。
日本時代に建てられ布教した教会も残っている。

最初に入ってきたのはプロテスタントだった。
いまから130年前の事である。
その時を記念して建てられた教会が写真の教会・ローガンメモリアルチャーチである。
かつて何度も改築改修を重ね、今また信者達の手で新しく生まれ変わった。
教会をクローズして改修工事が始まったのは、いまから5年ほど前の事だった。

島の中ほどにあるその教会の様子はいつも見ていた。
工事は遅々として進まず、いつ終わるのか、、、今年のクリスマスには間に合うのだろうか、、、といつも心配しながら眺めていたものだった。
それもその筈で、建築業者に依頼するのでもなく、手漉きの信者たちが細々とボランティアで行っていたのである。

そして、この度、やっと待ちに待った落成の日を迎えた。
教会の周りにはたくさんのテントが張られ、信者たちが持ち寄った贈り物が山と積まれている。
あちこちで歌や踊り、喜びの声が響き渡る。
時を経た分、信者達の喜びは例えようもなく、老若男女誰もが喜びに溢れていた。
真摯に神を信じる者たちの心の表現だ。

久々に目にした素晴らしい光景だった。

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1944年2月17日、18日の両日、トラック島(チューク)はアメリカ軍機動部隊による未曾有の大空襲を受けた。
航空母艦11隻をはじめとして、70隻に及ぶアメリカ大艦隊がトラック環礁を取り巻いた。
わずか2日間の攻撃で、80隻に及ぶ艦船が海の藻屑と消えた。
陸上の軍施設はことごとくが廃墟と化した。
1万人以上の日本人が犠牲となった。

そして70年後の今日・2月17日、ミクロネシア連邦大統領、アメリカ・日本の両国大使列席の元、現地政府によるトラック大空襲の記念式典が厳かに執り行われた。

来賓のスピーチの後、兵士たちが眠る海に花束が献花される。

現地の子供たちによる献歌と演奏。
『君が代』斉唱に目頭が熱くなる。

この戦争の悲惨さは、これからも絶えることなく伝えていかねばならない。

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今日は、ミクロネシア・チューク諸島のカルチャーデイ。
学校や婦人会などで様々な催しや展示即売会等のイベントが行われた。
折よく仕事も久しぶりにOFFとなり、1日のんびりとカルチャーデイイベント巡りとしゃれ込んだ。

婦人会会場では、参加者や訪問者も殆どが堂々の体格のご婦人ばかりで、男どもは私を含めて数えるほどしか居ない。
女たちの迫力に圧倒される。
出店品も女性らしく、衣料品や食べ物、民芸品などがが多い。
全てが手作りの、そして、自給自足の品々ばかりだ。
幾つかの気に入ったものを買い込んで、次の会場へと移動する。

こちらはミクロネシア短大チューク校のキャンパス。
海岸沿いのキャンパスには椰子の葉ぶきの展示小屋が並んでいる。
そんな一角で椰子の葉を使った編み物教室が開かれていた。

以前から気になっていたことなので、早速入って教えを乞う。
まずは、チュークでは最もポピュラーな椰子の葉バスケット。
これを作れなくては、チューク通としての名が廃る!!

そして次にトライしたのが、チョットかっこいい椰子の葉のベルト。
これも何とかマスターした。

椰子の葉の編み物に、沢山の買い物。。。

久々に、ちょっぴり嬉しい、そして楽しい休日となった。

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