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今年は終戦から数えて70年、、、日本がミクロネシアを統治(南洋統治)してから100年が経つ。

日本統治時代の30年間、トラック諸島にも多くの日本人達が移住し、中心地だった夏島には街が開け、様々な会社や産業が根付いていった。
太平洋戦争が近づくにつれ諸島内は次々と軍事基地が設けられ、中心地だった夏島は軍事要塞として増々その賑わいを増していった。

時を同じくして、トラック諸島内には現地の子供たちのための日本語学校が各地に設けられ、日本語教育が盛んに行われた。
現地人の為の学校は公学校(こうがっこう)と呼ばれ、日本人の子供たちが通った国民学校とは区別されていた。
離島の公学校は3年制で、夏島本校は5年制の学校である。
公学校を卒業した子供たちは、日本人の家庭やストアー、レストラン、民間の会社や軍部で働き、生きた日本語を学び、日本人としての資質を磨いていった。

このように日本時代を生きた老人たちは、流ちょうな日本語を話し、日本人の心と魂を持った人たちだった。
大和魂を心の糧として、戦後のミクロネシアの社会の中をたくましく生きてきた。
そして今、そんな老人たちも年を追って居なくなってきた。

3月上旬のある日、1人の現地老人が静かに息を引き取った。
クール・サッパ、87歳。
月曜島に住む老人で、日本語を巧みに操り、日本人の心を宿し、日本時代を本当に知る最後の老人だった。
寿命の短い現地人の中にあって、驚異的な元気さと明朗さを持つ、優しい老人だった。
日本のテレビやマスコミにも何度か登場した。

今となり、日本時代を知る老人たちは殆ど居なくなってしまった。
これまで彼らによって語り継がれてきた日本人の素晴らしさや優秀さを汚すことなく
後世に伝えていくことが、現地に住む我々日本人にとって課せられた任務でもある。