山川さん76歳。
昭和11年トラック諸島・火曜島生まれ。
トラック諸島・夏島の国民学校に通う。
大空襲の真っ只中、一旦は船を下り戦火を逃れ、再び引き揚げ船に乗り込み、命からがら母と共に日本に帰還。
両親の故郷、沖縄に帰る。
当時7歳の女の子だった。
トラック諸島・夏島の国民学校に通う。
大空襲の真っ只中、一旦は船を下り戦火を逃れ、再び引き揚げ船に乗り込み、命からがら母と共に日本に帰還。
両親の故郷、沖縄に帰る。
当時7歳の女の子だった。
山川さんは沖縄の出身で、戦前、両親がトラック諸島で鰹節工場に従事していた。
日本統治時代のトラック諸島には20か所を超える鰹節工場があり、そのほとんどが沖縄の人達であった。
その当時、ミクロネシアで生産される鰹節は、南洋節と呼ばれ、その鮮度の良さから高品質の鰹節として国内で重宝された。
戦前の日本全土で消費する鰹節のなんと60%がこの南洋諸島で生産されていたのである。
日本統治時代のトラック諸島には20か所を超える鰹節工場があり、そのほとんどが沖縄の人達であった。
その当時、ミクロネシアで生産される鰹節は、南洋節と呼ばれ、その鮮度の良さから高品質の鰹節として国内で重宝された。
戦前の日本全土で消費する鰹節のなんと60%がこの南洋諸島で生産されていたのである。
何とかして自分の生まれ故郷のトラック島を訪ねたい・・・。
日々を追う毎に、歳を重ねる度に、その思いは大きく強いものとなっていった。
かつてのトラック島の風景がいつも脳裏をかすめていく・・・。
日々を追う毎に、歳を重ねる度に、その思いは大きく強いものとなっていった。
かつてのトラック島の風景がいつも脳裏をかすめていく・・・。
娘と3歳になる孫を連れてのトラック島帰省が決まった。
予定通り日本を出発して途中のグアムに到着、あとは飛行機を乗り継いで1時間40分、夢にまで見たトラック島はすぐそこだ。
ところが、トラック島を目前にして、思いもしないトラブルが発生した。
トラック島方面行の飛行機が突然キャンセルになってしまったのだ。
この後も代替便は無いと言う。
しかも、このあと2日後と4日後の定期便の席は全くないと言う。
連日の航空会社からの説明はにべもない。
予定通り日本を出発して途中のグアムに到着、あとは飛行機を乗り継いで1時間40分、夢にまで見たトラック島はすぐそこだ。
ところが、トラック島を目前にして、思いもしないトラブルが発生した。
トラック島方面行の飛行機が突然キャンセルになってしまったのだ。
この後も代替便は無いと言う。
しかも、このあと2日後と4日後の定期便の席は全くないと言う。
連日の航空会社からの説明はにべもない。
このままではグアムに滞在したままでツアーの予定が終わってしまう。
母の事を思い必死に航空会社と交渉する娘さん。
そして予定のスケジュールから3日後、やっとトラック行の席を確保した。
トラックに居て山川さんを迎える私たちも、この朗報に涙を流して喜んだ。
母の事を思い必死に航空会社と交渉する娘さん。
そして予定のスケジュールから3日後、やっとトラック行の席を確保した。
トラックに居て山川さんを迎える私たちも、この朗報に涙を流して喜んだ。
ところが今度はトラックに到着してからも夏島を前にして渡ることができない。
予定が大幅に狂ったために、夏島に渡るボートを確保できないのだ。
そして日本を出て6日目、やっと念願の夏島に足を下ろすことが出来た。
予定が大幅に狂ったために、夏島に渡るボートを確保できないのだ。
そして日本を出て6日目、やっと念願の夏島に足を下ろすことが出来た。
かつてボートで学校に通ったコースを、モーターボートで辿る。
毎日通った当時の街並みは今はもう無い。
それでも、学校跡に残る校門の門柱をくぐり、校庭跡に立った時、子供の頃のトラック島の思いが鮮明に思い出される。
当時の通学路傍の民家でパンの実をご馳走になった。
校庭跡の民家にぶら下がっているバナナを頂いた。
どれもこれも子供の頃に大好きだった現地の食べ物だ。
毎日通った当時の街並みは今はもう無い。
それでも、学校跡に残る校門の門柱をくぐり、校庭跡に立った時、子供の頃のトラック島の思いが鮮明に思い出される。
当時の通学路傍の民家でパンの実をご馳走になった。
校庭跡の民家にぶら下がっているバナナを頂いた。
どれもこれも子供の頃に大好きだった現地の食べ物だ。
自分が子供の頃に住んでいた南の島を、孫にも、娘にも見てもらった。
大好きだった食べ物も食べてもらった。
大好きだった食べ物も食べてもらった。
『もう思い残すことはありません。』
飛行機に向かう彼女のすがすがしい笑顔がいつまでも心に残った。
山川さん、いつまでもお元気で。。。
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