『思い出の地を訪ねるトラック諸島』
そんなタイトルのツアーが、JTBより企画・発売された。
そして、今月は早くも2本のツアーが決定し、最初の1本目のツアーが先週催行された。
そして、今月は早くも2本のツアーが決定し、最初の1本目のツアーが先週催行された。
当然ではあるが、参加者の全てが戦後生まれの方達である。
かつて、南洋群島と言う日本の統治地の中に、トラック島という所があった。
日本海軍の一大基地が設けられ、たくさんの日本人が住んでいた。
戦前の国語の教科書には、『トラック島便り』と言うページがあり、南の島の風物や景色が紹介され、日本中の子供達に夢を与えたと言う。
日本海軍の一大基地が設けられ、たくさんの日本人が住んでいた。
戦前の国語の教科書には、『トラック島便り』と言うページがあり、南の島の風物や景色が紹介され、日本中の子供達に夢を与えたと言う。
現在の平成天皇も御幼少の頃、『トラック島便り』を興味深くご覧になられたとお聞きしている。
『思い出のトラック諸島』はそんな戦前の方達にとっては、子供のころを思い起こさせる懐かしいフレーズでもあった訳だ。
そんな一般の方達に交じって、正真正銘の『思い出の地』を絵に描いたようなお客様がいらした。
彼の父は、当時の南洋群島の貿易を一手に引き受けていた『南洋貿易(通称・ナンボウ)』のトラック支社長だった。
そして昭和8年10月、彼は当時のトラック島の中心地だった夏島(現・デュブロン島)で生まれた。
かれの戸籍抄本には今も、出生地・夏島がはっきりと明記してある。
そんな一般の方達に交じって、正真正銘の『思い出の地』を絵に描いたようなお客様がいらした。
彼の父は、当時の南洋群島の貿易を一手に引き受けていた『南洋貿易(通称・ナンボウ)』のトラック支社長だった。
そして昭和8年10月、彼は当時のトラック島の中心地だった夏島(現・デュブロン島)で生まれた。
かれの戸籍抄本には今も、出生地・夏島がはっきりと明記してある。
自分や妹が生まれ育った家屋敷、一緒に泳いだであろう家の前の海、父や母が活躍した会社やお店の場所、会社の専用桟橋など、家族ゆかりの地を余すところなく見学する事ができた。
トラック島を離れる日、賑やかにお別れをするメンバーの中に混じって、別れの言葉を告げる彼の目がうるんでいたのが今も脳裏に焼き付いている。
トラック島を離れる日、賑やかにお別れをするメンバーの中に混じって、別れの言葉を告げる彼の目がうるんでいたのが今も脳裏に焼き付いている。
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