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今回、サタワン島を訪れた目的の1つに、慰霊碑と戦跡の調査があった。

サタワン島には戦時中、最大で1600名に及ぶ守備隊があった。

島には、桟橋や飛行場が建設され、陸・海軍の基地が整備されていった。
長さ2.6キロ、幅が最大でも700mと言う小さなである。
食糧事情を考慮し、その後、部隊の軽減はあったものの、それでも常時1000人を超える日本兵がこの小さな島に駐屯していたのである。
終戦の1年半前、トラック環礁同様にアメリカ軍の猛攻に晒され、やがて補給の道も断たれ、ただでさえ不足していた食糧は、平時の3分の1まで減少してしまった。
島に豊富に茂っていたパンの木や椰子の木なども、米軍の爆撃で壊滅的な被害を受けた。

必死の開墾の末、畑を作りサツマイモなどの作物を植えた。
収穫を待つ間、草の根、ネズミ、トカゲまで食べながら飢えと戦った。
状況は現地人達もまた同様であった。

しかし、このような状況下であっても、時の隊長・飛田大佐は、現地住民の食糧に手を出した者には厳罰で臨み、
むしろ現地人擁護の方針を貫いた。
おのずと現地住民の間にも、日本人への食糧援助の機運が高まり、双方の信頼関係がこの一大危機を乗り越えたのである。

終戦間際、島の北部に建立された『忠霊塔』という慰霊碑がある。
戦後、サタワン島に開校した高校の校章は、この忠霊塔そのものであった。

2日間のサタワン島滞在において、日本人に対する彼らの信頼と、戦後から引き継がれてきた日本人の良き習慣を、幾度となく見かけた旅であった。