2015年04月

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台風が去ってから間もなく1ヶ月・・・、島からお米が消えてしまった。

パンの木やバナナが全滅し、今は、ライスや小麦粉、ラーメンなどが被災者たちの大事な食料となっている。
ところが島の食料ストックには限りがあり、とうとう島のストアからはライスが消えてしまった。

しばらく貨物船が入る予定も無く、、、さあ、どうなることか・・・

頼りはタロイモと古パンモチ・・・か。

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先の台風で、日本時代の貴重な建物や記念物が危機にさらされている。

1914年・大正4年、今から丁度100年前、現ミクロネシアは日本の統治地となった。
日本からの多くの移民者達が夢を抱いて南の島を目指した。

占領と同時に南洋群島軍司令部が置かれ、大正天皇の即位を記念して大きな運動公園が造成された。
そして間もなく運動公園そばには、現地人対象の立派な小学校(公学校)もできた。
それに伴い、多くの現地人達が日本人社会で働いたり日本語を学んだりして、現地人達の間にも日本人としての意識が徐々に高まっていた。

そんな折の1928年(昭和3年)9月、高松宮殿下がトラック島をご訪問された。
その時の宮様お手植えの樹が今も運動公園傍に立っている。
そして、宮様お手植えの樹と対峙するように公園の向かい側には、同じ日に植えられた
巨大なマンゴーの樹が仲良く公園を見渡すように立っている。

ところが今回の台風Maysakで、このマンゴーの樹が倒壊し、公学校の建物も大きな被害を受けた。
日本時代に建てられ90歳を超える公学校の校舎は、今も島の役所として使用されている。
そして、宮様お手植えの樹とお供に87歳になるマンゴーの樹。
戦渦をくぐり、幾度となく嵐や台風をくぐりぬけてきたマンゴーの樹もついに命が尽きてしまった。

幸い、公学校の方は、修復の道も残されており、今後の成り行きが気になるところだ。
多くの現地人が学んだ学校の建物がいつまでも保存されることを祈っている。

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台風Maysakが去って丁度2週間が経った。
島内のメーンロードは倒木も整理され、車も走れるようになったが、
街から遠い村々ではまだまだ電気も電話も不通のままだ。

特にパンの木やバナナが全滅し、自給自足の生活がメーンだった人たちにとっては、家も無く食べ者も無い深刻な状況となっている。
そんな中で、大きな力となっているのが現地に根ざしたボランティア活動だ。
小さな島国だが現地にもいくつかのボランティア団体があり、普段から様々な活動を行っている。

今、彼らが最も力を入れているのが被災者たちへの食糧援助だ。
ただし、海外からの支援でもなければ、お米やパンでもない。
チュークの伝統食の1つであるタロイモだ。
タロイモはパンの実と並んで、チュークの最も重要な食料である。

パンの木とバナナはほぼ全滅したが、タロイモは地下茎なので左程でも無い。
だが、塩害にあったり、強風で茎が折れたりしたタロイモは、2~3週間で芋がだめになってしまう。
今、そのようなタロイモを大量に掘り起こし、食糧難にあえいでいる被災者たちに配布しているのが、彼らボランティアの大きな活動の1つである。

海外からの援助に頼らない、現地ならではの的を得た援助活動だ。

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昨年10月、長年の懸案だったトラック諸島・水曜島の遺骨収集が実施された。
トラック諸島内では、過去にも書く島々の陸上遺骨、多くの沈船・水中遺骨の収集作業が幾度も実施され、多くの御魂が祖国に帰ることができた。
昨年実施された水曜島の遺骨収集は、長く閉ざされていた遺骨収集の道が現地側の協力で実現したものだ。
この場所にはかつて、海軍の野戦病院があり、またすぐ傍の海には、海軍輸送船・花川丸も沈んでおり、多くの戦没者が葬られている。

昨年の遺骨収集の発掘現場では、海軍水兵の碇のマークのバックルが、18~19歳の将兵の体の中央から発見された。

4月8日、9日、天皇陛下がパラオをご訪問なさり、多くの英霊の御魂に接せられた。

トラック島で犠牲になった多くの将兵たちの御魂が祖国の土を踏むことが出来るよう
今年もまた、トラック島での遺骨収集が実施されることを切に願う。

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この度の台風・Maysak災害復旧対策本部の会議にて、日本からの援助物資受け入れ窓口が、下記のように決定いたしましたのでお知らせいたします。

台風Maysak災害援助チューク政府指定日本人対応窓口

For Chairman
Chuuk State Emergency Central Communittee
Typhoon Maysak
C/O Takayuki Suenaga
P.O.BOX 447 Weno Chuuk State F.S.M 96942
ミクロネシア連邦

お問い合わせは下記まで

TEL:691-330-3801
携帯電話:691-930-7132
E-Mail::Suenaga@mail.fm

通信も途絶えたままで、離島の被害状況が未だ把握できて降りませんが、島の人たちは笑顔を絶やすことなく懸命の復旧作業を行っております。
皆様のご支援をお待ち申し上げております。

州政府災害対策本部日本人窓口より。

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天皇陛下のパラオ訪問がやっと実現した。

天皇陛下のミクロネシアご訪問は、現地の人たちにとっても長年の夢であった。
太平洋戦争の激戦地となったミクロネシアの海と島々には沢山の同胞達が眠っている。

今から丁度100年前、パラオを含むミクロネシア全域は、南洋信託統治領として日本の領土となった。
サイパン、ヤップ、トラック、ポナペ、マーシャル(ヤルート)にそれぞれ支庁が置かれ、南洋庁の政庁がパラオに設置されて、パラオが南洋群島の首都となった。

一方、トラック島(現・チューク)には、1914年の占領後すぐに南洋群島海軍司令部が置かれ、南洋諸島防備の要となる。
後の連合艦隊司令部が置かれる先駆けとして、早くも日本軍の前線基地として発展していく。

トラック島(チューク)には今も、天皇家由来の遺跡や遺構が少なからず残っている。
30年に及ぶ日本時代、南洋群島の軍事の要としてその重責を担っていた夏島(デュブロン島)には、占領直後すぐに、大正天皇の即位を記念した運動公園(都洛公園・トラック公園)が造営され、今も島の人たちのレクレーションの場として親しまれている。

また、運動公園の入り口には、昭和3年トラック島をご訪問なさった高松宮殿下のお手植えの樹(玉名の樹・マホガニー)と同時に記念樹のマンゴーが、その樹齢を遥かに超える重厚な佇まいで、今もトラック公園を見つめている。

そして昭和16年の開戦前夜、再度のご訪問となった高松の宮殿下をお迎えした喜びの詩を刻んだ石碑が、艦隊司令部に建立されている。

ミクロネシアが日本統治時代だった頃、日本の国語の教科書に南洋の風物詩を紹介するコーナーがあった。
『トラック島便り』と称したその読本には、南の島に赴任したお父さんが、日本に残る子供に南洋の事を教えてあげる手紙の形で紹介されていた。

天皇陛下もご幼少の頃、このトラック島便りを読んで、トラック島にもことのほかご興味を抱いていらっしゃったらしいと言う事を、宮内庁の関係者からお聞きしたことがある。

この度のご訪問が滞りなく無事に終えられることを心からお祈り申し上げる。

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チューク環礁の東端にパラダイスアイランドというきれいな無人島がある。
広大な砂地の環礁上に、潮流の作用で出来た砂浜だけの無人島だ。

私がチュークに住んでからの38年間で、3回の消滅と復活劇を演じてきた。
全く同じ場所に全く同じような砂の島が誕生する。
そうして、5、6年を掛けて緑の島に成長する。
そしてまた1夜の嵐で島が消滅する。
そんな島の誕生と消滅を何度も目にし、今度が3回目のパラダイスアイランドの誕生である。

実は、この台風の直前にパラダイスアイランドを訪ねる機会を得た。
3回目の復活を果たした砂浜の上には、少しずつ緑が濃くなっており、10種類の植物が砂地の上に根を張っていた。
流れ着いた椰子の実からも、20個ほどが芽を出している。

これからどれだけ大きくなるか、、、椰子の木は根付くだろうか、、、
島の半年後、1年後に想いを馳せて、パラダイスアイランドを後にした。

その翌日、パラダイスアイランドの真上を、風速72mの狂風が襲った。
果たして、パラダイスアイランドは今も残っているだろうか・・・。
この2年間で2mほどに成長した3本の木は今も無事だろか・・・。

1週間前に見たパラダイスアイランドの白い砂浜と小さな木々がまぶたに去来する。

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台風一過から1週間。
十分な機材も何も無い中で、懸命の復旧作業が続いている。

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