2015年03月

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3月29日・日曜日、台風4号(Maysak)がチュークを直撃した。

最大風速50mの強風が島々を駆け抜けた。
台風一過から2日間が経過した現在でも、電気、電話、インターネットは不通のまま。
多くの家屋が倒壊し、頼みのパンの木、バナナなどの現地食は壊滅状態にある。

飛行機も4日ぶりに到着した。
1日も早い復旧を祈っている。

今このブログは、飛行場前のホテルから発信している。

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今、チューク諸島でちょっとしたファッションが流行している。

市販の米の袋で作る、服飾品の数々だ。

ストアーで普通に販売しているお米・・・。

この袋が今、島人達の間で脚光を浴びている。
ハンドバッグやショルダーバッグ。
ナップザックや帽子、あるいはちょっとしたベストなど、、、アイデア1つで様々なファッションを生んでいる。

もともとチュークの人たちはストアーで生地を購入して、自分たちで服を作るのが主流。
こんな習慣が今回の流行を呼んだものだ。

お米を買えばタダで生地が入手できる。
しかも、半防水とあって、海や雨の多い島の人たちにとっては格好の素材とファッションになる。
今、続々と米袋ファッションが生まれている。

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今年は終戦から数えて70年、、、日本がミクロネシアを統治(南洋統治)してから100年が経つ。

日本統治時代の30年間、トラック諸島にも多くの日本人達が移住し、中心地だった夏島には街が開け、様々な会社や産業が根付いていった。
太平洋戦争が近づくにつれ諸島内は次々と軍事基地が設けられ、中心地だった夏島は軍事要塞として増々その賑わいを増していった。

時を同じくして、トラック諸島内には現地の子供たちのための日本語学校が各地に設けられ、日本語教育が盛んに行われた。
現地人の為の学校は公学校(こうがっこう)と呼ばれ、日本人の子供たちが通った国民学校とは区別されていた。
離島の公学校は3年制で、夏島本校は5年制の学校である。
公学校を卒業した子供たちは、日本人の家庭やストアー、レストラン、民間の会社や軍部で働き、生きた日本語を学び、日本人としての資質を磨いていった。

このように日本時代を生きた老人たちは、流ちょうな日本語を話し、日本人の心と魂を持った人たちだった。
大和魂を心の糧として、戦後のミクロネシアの社会の中をたくましく生きてきた。
そして今、そんな老人たちも年を追って居なくなってきた。

3月上旬のある日、1人の現地老人が静かに息を引き取った。
クール・サッパ、87歳。
月曜島に住む老人で、日本語を巧みに操り、日本人の心を宿し、日本時代を本当に知る最後の老人だった。
寿命の短い現地人の中にあって、驚異的な元気さと明朗さを持つ、優しい老人だった。
日本のテレビやマスコミにも何度か登場した。

今となり、日本時代を知る老人たちは殆ど居なくなってしまった。
これまで彼らによって語り継がれてきた日本人の素晴らしさや優秀さを汚すことなく
後世に伝えていくことが、現地に住む我々日本人にとって課せられた任務でもある。

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太平洋戦争時、日本海軍の有数の基地だったここトラック島(チューク)には、沢山の日本軍の艦船が沈んでいる。

トラック環礁内だけでもその数40隻に近い。
周辺の外洋を含めると80隻にも及ぶ。
輸送船やオイルタンカーをはじめ、軍艦、潜水艦、あるいは飛行機など、様々だ。

そんな沈船の1つに、戦艦大和、戦艦武蔵の世界に誇る巨大大砲の砲弾を積んだ船がある。
海軍輸送船『山霧丸・やまぎりまる』6439トンだ。
トラック環礁内・水深40mの海底に左舷を下に真横に横たわっている。
魚雷の爆発で空いた大きな穴から船内に入ると、薄暗い船倉に大和・武蔵の巨大な砲弾が水中ライトの光に浮かび上がってくる。

今も浅瀬に残る戦艦武蔵の係留ブイ、武蔵・大和の巨大な砲弾・・・。

70年前、今は亡き両艦の確かな面影をしのぶことが出来る貴重な遺物だ。

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『戦艦武蔵』発見の報がにわかに話題になっている。

ここトラック島(チューク)は、日本有数の海軍基地があったところだ。
太平洋戦争勃発の翌年には、早くも連合艦隊司令部の前線基地が置かれ、戦艦大和、戦艦武蔵をはじめ、
日本海軍の艦船が、トラック環礁に結集した。

今、インターネットで盛んに紹介されいている、戦艦大和・戦艦武蔵のツーショット写真は、
何とこのトラック島で撮影されたものだ。
昭和17年夏、トラック島の艦隊錨地のに停泊していた両艦を、戦艦長門の艦橋から撮影したものである。

当時、日本海軍のほとんどの軍艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、航空母艦がこのトラック環礁にその雄姿を見せた。

当時の艦隊錨地の近くの浅瀬には、当時、戦艦武蔵が使用していた係留ブイが今も残っている。

ゼロ戦の基地・竹島飛行場。
山本五十六、死出の場所となった水上飛行機の基地。
五十六の居住地・連合艦隊司令長官官舎。
今も天空を睨む山頂の高射砲、等々・・・。

トラック島の海とジャングルには、70年前の戦闘の跡が今も数多く残っている。

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