2013年02月

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 日本の新聞にチュークのザビエルハイスクールが紹介された事がある。
『戦争の記憶』という終戦記念日を巡る特集記事の一コマである。
ご存じの通りトラック島(チューク)には数多くの戦跡や遺構が残されている。
その中には現地人たちによって再び命を与えられ、今も現地社会に貢献しながら利用されているものも少なくない。

 このザビエルハイスクールもそんな建物の1つである。
鉄筋2階建てのとても強固な建築物で、当時、通信隊基地として使われていた。
アメリカ軍の攻撃をまともに受けながらも壊れることなく終戦を迎えた。
戦後間もなくキリスト教・イエズス会によって高校としての道を歩む事となり、ザビエルハイスクールとして現在に至っている。
この建物は、馬渕建設(旧・馬渕組)によって建てられた為、チュークの人達はこの高校を『マブチスクール』とも呼んでいる。

 現在のチューク国際空港は、日本時代の飛行場を整備したものである。
日本統治時代のモエン島(春島)には、2つの飛行場があった。
現在の飛行場が第一基地、もう一つの飛行場が、第二基地と呼ばれた。
第二基地は、水上飛行機の基地でもあり、島の最南端の岬に造られた。
戦後間もなく民間機が就航するようになると、コンチネンタル航空がいち早くこの場所に目を付けて、ホテルを造営した。『コンチネンタルホテル』である。
現在は、『ブルーラグーンリゾート』として世界中からのダイバーの憩いの場所として人気を博している。

デュブロン島(夏島)の役場は100年近く前に建てられた時代的な建物だ。
それもそのはずでここは「公学校」と呼ばれ現地の子供達が通った学校であった。
現地の子供達が毎日楽しく学んだ学校が、今では島の最重要な機関として再び島の人達に貢献しているのである。
そしてその下には大きなグランドがある。
『都洛公園』(トラック公園)と呼ばれた大正天皇の即位を記念して造られた運動公園だ。
今も夏島の唯一の運動場として、祭りに行事にと有効利用されている。先週の週末にも、夏島の全島大会が催され、未だ興奮冷めやらず、と言ったところである。
戦争が終わって70年、ここは今も変わらず、夏島の人達の心の拠り所となっている。

10年ほど前、チューク地方を大変な旱魃が襲った。
半年間ほど殆ど雨は降らず、島のあちこちで山火事や火災が起こり、パンの木やタロイモ、バナナやタピオカなどの作物はほとんどが枯れ果てていった。島人達は水不足に悩まされ健康を害する者も多く、大変な社会問題になった事がある。そんな時に威力を発揮したのが、日本時代の井戸の存在であった。
環礁内の各島々には日本時代の井戸が随所に残っており、今も彼らの大事な水資源となっている。
この井戸の存在が、当時の旱魃でどれ程の人達を助けたか計り知れない。

残されたものはわずかではあるが、日本時代に築かれた財産の一つ一つのかけらが、今も彼らの生活の中で深く根強く息づいている。

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 チューク(トラック)環礁は世界に冠たるレックダイビング(沈船ダイビング)のメッカである。
映画・タイタニックの沈船映像の正体はチュークの海に鎮座し、世界でもNO-1と評される『富士川丸』・7000トンの姿である。
チュークの沈船は、アメリカのダイビング雑誌が選ぶ世界のベスト10の常連だ。
2004年にはなんと世界のナンバー・ワンにも選ばれた事がある。
洋上に浮かんだこの海のカルデラには多くの艦船や航空機が沈んでおり、世界中のダイバーを魅了してやまない。
 
戦後、北米航路で活躍し、横浜港・山下埠頭に安住の地を求め、多くの日本人に愛され親しまれている氷川丸・1万1000トンと同じ姿をトラック環礁の海底に見る事が出来る。
氷川丸の姉妹船・平安丸は、同じく北米航路の花形船として活躍した後、潜水艦母船として、チューク環礁の海底に潜水艦と共に静かに眠っている。
 
 現在、環礁内で確認されている主な沈船は37隻を数える。
無数のパスから流れ込み流出する膨大な量の潮流は、常に環礁内を透明度の高い海に保っており、その水深と相まって恰好の沈船ポイントを作り上げている。

 海底の眠りについて70年が経った今、様々なサンゴ達が沈船を飾り、沢山の魚たちの棲家となっている。
連邦政府はこのチューク環礁を海底博物館に指定し、厳重な保護・管理のもとに世界のダイバー達に解放している。

多大な犠牲を強いられた戦争の遺産でもあり、偉大な海のモニュメントでもある。

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1944年2月17日・18日の両日、トラック島はアメリカ軍による未曾有の大空襲を受けた。
航空母艦9隻、軍艦8籍を含む70隻余りの大艦隊がトラック環礁を取り巻いた。

そして2か月後の4月30日・5月1日の両日、今度はアメリカ・オーストラリア連合軍による再度の猛攻撃を受ける。
たび重なる大空襲により東洋のジブラルタルとまで称されたトラック島の要塞は壊滅した。
軍事施設だけでなく、30年間の日本統治時代に築かれた平和な町跡もまたトラックの地上から消えた。

その痕跡は69年経った今も、トラック環礁の海底、島々のジャングルの中に静かに眠っている。

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気温23度は寒い!!

連日、雪や氷点下の中で生活している日本の人達にとっては、何をトボケタ事を・・・、とお思いでしょう。

こちら北緯7度の熱帯の島。
ここ3日間連日の雨模様で全く太陽が顔を見せていない。
通常は日陰でも30度以上もあった気温はどんどん下がり、ここ3日間は正午でも23度をやっと超える程度。
南の島の人たちにとっては、一気に10度以上も下がる気温23度は本当に寒い。
つかの間の雨上がり。
普段はT-シャツ、短パンなどで過ごしている彼らも、ここ2,3日は皮のジャンバーや防寒具を着ている人達をあちこちで見かける。

いつもは風通し良くするために玄関のドアーも開けっ放しの我が家でも、この3日間は寒くてドアーは閉ざしたままである。
ホテルのキャンパスもまるで池や湿地帯のような状態で、子供たちが無邪気に遊んだりしている。
お蔭でこの数日、汗をかくことなく快適な毎日を過ごしている。

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南国を彩る鮮やかな花々。
何日も咲き続ける花もあれば1日で散って行く花もある。

そんな中で、夜に花を開き夜明けにはそっと人知れず散って行く花がある。
その名は「サガリバナ」(下がり花)。
名の通り垂れ下がった長い花の蔓に妖艶な花を夜毎咲かせる。
日没と同時に小さな蕾が膨らみ始め、1時間を過ぎた頃には写真のような見事な花を開く。
若葉と種子は現地の人達の大事な薬草でもある。

サガリバナ科の植物でもう一つ、やはり夜咲く花がある。
名前は「ゴバンノアシ」。
奇妙な名前の由来は、種の形が碁盤の足に良く似ているところからの命名だ。
ゴバンノアシも下がり花同様に、日没と同時に咲き始め、夜明けには散って行く。

いずれも海岸や水辺などの湿地帯に埴生しており、水面に落ちた花弁は夜の夢を再現させてくれる。
沖縄の西表島では、川面に浮かぶ花弁をめぐるツアーがあるほどだ。

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『父はトラック島の夏島で生まれて、3歳まで住んでいました。』
『詳しい事は何もわかっていません。』

現地でのガイドの依頼とお問い合わせを頂いた。
父が元気なうちに生まれ故郷のトラック島に何とかして連れて行ってあげたい・・・。
そんな娘さんとのやり取りが始まった。

何度かのやり取りの後、父親の両親が夏島の鰹節工場で働いていたことが判明した。
当時、トラック諸島には20か所を超える鰹節工場があり、その殆どが沖縄の人達によって運営されていた。
お問い合わせを頂いた渡久地さんもまた、沖縄の方である。
その当時、夏島には2か所の鰹節工場があった。
とは言うもののわずか3歳でトラックを引き上げており、本人には全く現地での記憶は残ってはいない。
ただただぼんやりと、海岸の椰子の木や海の景色が幻のように思い浮かぶだけである。

当時の状況をご説明し、その2か所の鰹節工場跡をご案内することにした。
1か所は個人経営の鰹節工場。
もう1か所は企業が経営していた缶詰と鰹節工場跡である。

最初に個人経営だった工場跡に向かう。
当時の桟橋跡にボートを着け、現地人に許可を得て、ご家族をご案内した。

当時の住宅跡、レンガの釜の跡、造船所跡などを見ていたお父さんの目があるものにくぎ付になった。
自然石を組み上げた構造物がそこにはあった。
ただ石を積み上げた物ではない。
サンゴの石を巧みに組み合わせた明らかに何かを意図した石の構造物だった。

『ウガンジュだ!』
お父さんの言葉に、お母さんも大きくうなずく。

『御願所・ウガンジュ』とは、自然石を積み上げて造った物で、沖縄に今も伝わる祈祷の風習である。

遠く祖国から離れ、孤島で生きる毎日・・・。
家族や仲間の健康と幸せ、海の安全、事業の繁栄などを仲間たちと共に毎日毎日祈ったに違いない。

鰹節工場跡の片隅に今も残る御願所・・・。
積み上げられた石を触りながら何度も何度も巡る父。

『生まれ故郷に帰ったような気がする』

椰子の木に体を預ける父の表情に爽やかな笑顔が広がった。

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