2012年06月

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ロシアのフィッシンググループが初めてチュークにやってきた。

世界を股にかけてフィッシング活動を行っている日本でもトップクラスのプロフェッショナルアングラー・松谷英勝が率いる日露混成フィッシングパティ―の8名だ。

ロシアの戦士・6名。
片や迎え撃つ日本軍は、孤軍奮闘・安田軍曹ただ一人。

圧倒的戦力に勝るロシア軍に対して、たった1人で互角以上の闘いを繰り広げた安田軍曹。
釣り上げた数サイズ共に、多勢のロシア軍に一歩も引かず日本男児の意気を見せつけた。

明治時代、かつての日露戦争もかくあるものかと、しみじみと大和魂の誇りを感じ、大いに溜飲を下げたものだ。

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今回のミクロネシア直行便は、ミクロネシア連邦政府、とりわけ在日ミクロネシア大使・ジョン・フリッツ氏をはじめ、ミクロネシア大使館員達の大変な努力のもとに実現した。

ジョン・フリッツ大使は、今回チュークを訪問した相澤ファミリーの一員で、チュークの日系3世にあたる。
かつて、日本のマスコミでも盛んに取り上げられ話題になった、南の島のプロ野球選手、故ススム・アイザワ氏(日系2世)の甥にあたる。
日本語も堪能な彼は、森喜朗氏はじめ日本の政財界にも通じており在日本大使としてはうってつけの人材と言える。

そしてもう一人、今回の直行便のコーディネーターとして、その手配から、ポンペイ、チュークでの公式行事の通訳、また、森・元総理の専属の通訳として寝食を忘れ大活躍した1人の若き日系人がいる。

クニオ・32歳。
チューク生まれの彼は、高校卒業までチュークで育ったあと、一念発起して単身日本に渡る。
アルバイトをしながらの10年間に及ぶ苦学の末、日本語を習得。ミクロネシア大使館に就職する。
チューク語、日本語、英語を自由に操り、母国要人訪日の際は通訳としてその任にあたる。

そして今回、森・元総理の通訳として、またミクロネシア連邦の公式通訳として、ポンペイ、チュークに随行した。
そのウイットに富んだ通訳振りは、内外の人達の賞賛を浴びた。

森氏ご一行がチュークを離れる最後の昼食会。
一行の出発準備に追われて随分遅れて会場に駆け込んだ直後、掛かってきた電話に応答する。
その声を聞いた森・元総理、後ろを振り返る事も無く
『懐かしい声がするなー、クニオの声を聞くとホットするよ!』

そのお言葉に、思わず目頭が熱くなった。

日本名・末永邦雄。

我息子である。

トンビが鷹を生んだとはこの事か・・・。

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この度のミクロネシア直行便では、一般客に交じって、トラック島にゆかりの深い方たちが訪れた。
トラックの社会に深く根ざし活躍している日系人たちの日本のファミリーの方々である。

トラック諸島は太平洋諸国の中でも最も多くの日系人比率の高い地域の1つである。
明治、大正、昭和初期と多くの日本人たちが夢を抱いてこの南の島を目指した。
そんな中で多くの力のある優秀な日系人ファミリーが形成された。
中でも、モリ、シライ、アイザワ、ナカヤマはその代表的なファミリーである。

初代ミクロネシア連邦大統領、トシオ・ナカヤマ。
現在のミクロネシア連邦大統領、マニエル・モリ。

この2人に代表されるように多くの日系人たちが今もトラックの社会を支えている。
今回のチャーターフライトでは、日本からのファミリーが一堂に会し、トラックの日系社会始まって以来の日系人交流歓迎会が随所で催された。

太平洋を隔てた親戚たちが、時間と距離の壁を超えて、老若男女がまるで今隣町から集まったように笑顔で談笑している。

個人的には森・元首相のような大きなパワーではないが、このような彼らの心の交流はこれからの日本・ミクロネシアの友好に大きなうねりとなって広がっていくに違いない。

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この度「ミクロネシア連邦友好記念直行便」が就航した。
ミクロネシア連邦独立25周年を記念して実施されたこの歴史上初めての直行便では、ミクロネシア連邦に縁の深い方々120名が南の島を訪れた。

中でも最高のVIPゲストは、森喜朗・元首相である。
殆どの方達が首都ポンペイに滞在する中で、森氏はお付の方々を従えて、2日目真夜中、チュークをご訪問なさったのである。森氏のチューク訪問は、何とこれで3度目のあたる。

森氏のお父上は、先の太平洋戦争でトラック諸島・水曜島で陸軍隊長として赴任していた。
信望の厚かった森隊長は、現地人と協力して大空襲後のトラックの危機を乗り越え、無事帰国した。
父の赴任していた激戦地・トラック島を是非訪ねてみたい。
そんなミクロネシアへの強い思いが、太平洋地域への交流の大きな力となり、現在でも広く交流活動をなさっていらっしゃる。

3度目のご訪問となった今回は、ポンペイでの様々な行事の後、真夜中の移動でチュークを訪問され、とてもタイトなスケジュールの中、ボートでお父上が生死をかけた場所・水曜島をご訪問なさった。
最後の夜のレセプションにはチュークの政済界の面々や森氏を慕う人々が数多く集合し、和気あいあいとした楽しい時間が流れて行った。

今やMR.MORIの名前は、日本の代名詞として、ミクロネシアの人達の心に強く深く根ざしている。

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山川さん76歳。

昭和11年トラック諸島・火曜島生まれ。
トラック諸島・夏島の国民学校に通う。
大空襲の真っ只中、一旦は船を下り戦火を逃れ、再び引き揚げ船に乗り込み、命からがら母と共に日本に帰還。
両親の故郷、沖縄に帰る。
当時7歳の女の子だった。

山川さんは沖縄の出身で、戦前、両親がトラック諸島で鰹節工場に従事していた。
日本統治時代のトラック諸島には20か所を超える鰹節工場があり、そのほとんどが沖縄の人達であった。
その当時、ミクロネシアで生産される鰹節は、南洋節と呼ばれ、その鮮度の良さから高品質の鰹節として国内で重宝された。
戦前の日本全土で消費する鰹節のなんと60%がこの南洋諸島で生産されていたのである。

何とかして自分の生まれ故郷のトラック島を訪ねたい・・・。
日々を追う毎に、歳を重ねる度に、その思いは大きく強いものとなっていった。
かつてのトラック島の風景がいつも脳裏をかすめていく・・・。

娘と3歳になる孫を連れてのトラック島帰省が決まった。
予定通り日本を出発して途中のグアムに到着、あとは飛行機を乗り継いで1時間40分、夢にまで見たトラック島はすぐそこだ。
ところが、トラック島を目前にして、思いもしないトラブルが発生した。
トラック島方面行の飛行機が突然キャンセルになってしまったのだ。
この後も代替便は無いと言う。
しかも、このあと2日後と4日後の定期便の席は全くないと言う。
連日の航空会社からの説明はにべもない。

このままではグアムに滞在したままでツアーの予定が終わってしまう。
母の事を思い必死に航空会社と交渉する娘さん。
そして予定のスケジュールから3日後、やっとトラック行の席を確保した。
トラックに居て山川さんを迎える私たちも、この朗報に涙を流して喜んだ。

ところが今度はトラックに到着してからも夏島を前にして渡ることができない。
予定が大幅に狂ったために、夏島に渡るボートを確保できないのだ。
そして日本を出て6日目、やっと念願の夏島に足を下ろすことが出来た。

かつてボートで学校に通ったコースを、モーターボートで辿る。
毎日通った当時の街並みは今はもう無い。
それでも、学校跡に残る校門の門柱をくぐり、校庭跡に立った時、子供の頃のトラック島の思いが鮮明に思い出される。
当時の通学路傍の民家でパンの実をご馳走になった。
校庭跡の民家にぶら下がっているバナナを頂いた。
どれもこれも子供の頃に大好きだった現地の食べ物だ。

自分が子供の頃に住んでいた南の島を、孫にも、娘にも見てもらった。
大好きだった食べ物も食べてもらった。

『もう思い残すことはありません。』

飛行機に向かう彼女のすがすがしい笑顔がいつまでも心に残った。

山川さん、いつまでもお元気で。。。

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『トラック大空襲』著者であり、トラック島の海に半生を捧げた、吉村朝之氏が68歳と言う短い生涯を閉じた。

トラック島の沈船を日本に紹介し、その旺盛な活動力と情熱は、2回に及ぶ厚生省の遺骨収集を実現させる原動力となった。
人生で最も活動的な青年時代、彼はトラック島の沈船ダイビングにその大半を費やした。
その沈船ダイビングの本数は優に600本を超える。

自他ともに認める世界NOー1の沈船ダイバーだ。

その業績は、1冊の名著『トラック大空襲』に集約されている。
トラック環礁内に沈むすべての沈船の生い立ちからトラック環礁に沈むまで・・・。
そして今、それらの沈船はトラックの海でどのような姿を留めているのか・・・。
その英霊たち、、、遺族の方たちに至るまで・・・。

トラックに沈む沈船の鎮魂歌だ。

吉村氏の詳細については、須賀次郎氏の以下のブログをご覧いただきたい。

スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
jsuga.exblog.jp

日本の水中映像草分けの大御所でもある氏は、現在77歳。
今も旺盛な活動力で日本のダイビング業界をリードしている。
吉村朝之の生涯の師でもあり、ダイビング他ならず人生のパートナーでもある。

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