2012年02月

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日本のTV局の招待で日本を訪れたアンベルファミリー。。。

沢山の思い出を胸いっぱいに故郷の島・PIS島に凱旋した。
島人達への土産話も尽きることなく、連日の質問攻めにも顔は緩みっぱなしだそうだ。

日本から帰国してからも日本の事が片時も忘れられなくて、どうもニッポン病に感染してしまったらしい。

先日、PIS島からひょっこりやってきて、我が家を訪ねてきた。

興奮未だ冷めやらず・・・、と言った様子で、日本での楽しかった出来事の数々を、まるで機関銃のように話し始めた。

正に、夢の世界を旅した、、、と言う表現がぴったりである。

彼らの世界から考えると、ニッポンはまるで宇宙の果ての世界。
その窓口が私たち末永ファミリーと言うわけだ。

私と妻の薫が取材をコーディネートし、息子のヒロミが通訳で日本にお供した。
今では家族同様に思っているらしい。

近々こちらに呼んで、日本から送られてきたビデオを見ながら、また夢の世界へ招待してあげようと思っている。

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冒険ダン吉なった男・森小弁については、これまでもいろんなところで紹介されている。
以下のエッセイは、8年ほど前に私が書いたもので、小弁の最後の子供がこの世を去った時の雑感をしたためたものである。

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『南海に生きる』ー 南海に残る大和魂 -  末永卓幸

11月の中旬、森六郎(モリ ロクロー)という日本名を名乗る80歳の現地老人が静かに息をひきとった。多くの親族に囲まれ安らかな旅立ちであった。死の数日前、寝たきりの彼を見舞った時、かれの意識はまったく正常そのものだった。自分の病状を、笑顔を見せながら私達夫婦に話してくれた。そして、自分の父の生涯をえがいた書物、 『“夢は赤道に” を読みました。』と、にっこり笑って教えてくれた。

 1892年、今から遡ること112年前。
天祐丸という小さな機帆船が、チューク・モエン島の沖合いに静かに錨を下ろした。外国人宣教師がチュークに足を踏み入れてから、わずか8年後の事であった。日本人が初めてチュークに足を下ろした瞬間である。 彼の名は、森小弁(もり こべん)。土佐の藩士の息子で若干・22歳。当時発足したばかりの貿易会社の社員として、南洋に夢と希望を抱いての渡島であった。その後彼はチュークに根をおろし、50数年に亘る人生の闘いをこの南の島で繰りひろげ、その生涯を閉じる事となる。
血を血で洗う民族闘争さなかのスペイン時代。
一・部族に身を置く小弁の身辺には、常に部族間闘争の波が押し寄せて来る。日本刀と鉄砲で武装した小弁は、原住民の先陣を切って部族間闘争に加わり、その勇名を馳せた。武器の略奪にあい惨殺された日本人の敵討ちにと、武闘集団を組織し、その部族に攻め入ったりもした。
迫害に苦しめられたドイツ時代。
小弁を中心にすでに小さな日本人社会がこのチュークにも根を下ろし始めた矢先、ドイツ官警の策略の下、全ての日本人がチュークから追放されという事件が勃発した。この困難にも小弁は智策を駆使しチュークに踏みとどまる。こうして、ヨーロッパ支配の激動の時代を命を賭して生き抜いた。
満を持して迎えた日本時代。
30年間に亘り日本軍政府とチュークの橋渡しとして大活躍をする。
彼の本領発揮の時であり、彼の人生で最も光り輝いた時でもあった。勲章を肩に誇らしげに微笑む彼の写真は、今も森一族の家々の壁に掛かっている。男の人生で最も重要な50年間を、彼は南海の孤島・チュークに捧げた。まさに波乱万丈の人生であったと言える。太平洋戦争の終焉は彼の人生の最期でもあった。日本がトラックを去った終戦の年、奇しくも彼もこの世を去っていったのである。

チュークに上陸した7年後、小弁は現地人の娘・イザベルをめとった。
男6人、女5人、日本人の血を引く11人の男と女、小弁が血を分けた子供達である。
その最後の子供が、冒頭の老人・森六郎である。小弁の死から60数年、六郎の死をもって小弁の血を継ぐ直属の者達は、このチューク諸島から姿を消した。しかし、小弁の血を引く11人の子供達から派出していったこの一族は、今では優に3000人を超える。直属の父系一族だけでもすでに1000人を超えている。現在ではすでに5世~6世の時代を迎えており、この森ファミリーを抜きにして、現在のチュークの社会は語れない。
 港、空港は森一族で支配されており、ホテル、ストアー、会社など、ビジネスの多くも森一族の面々が幅を利かせている。政府の役人の中にも『モリ』の人達が数多く勤めており、チュークの社会でそれぞれが重要な地位を占めている。『政治には手を出すな。政治は現地人に任せろ。』という小弁の遺言で、これまで政治とは無縁だった森一族にも、少しずつ政治家を志す者達が現れてきた。たった1人の男の血からこれ程の一族・集団が生まれ、1つの国家・社会に及ぼす影響を考えた時、その事実に驚きと畏敬の念を感じる。

第一次世界大戦の後、日本はドイツからこの南の島々を受け継いだ。
数多くの日本人がこの島々に移り住み、様々な日本文化や日本人の習慣が根付いていった。チュークの人達は、多くの日本人に接し、日本人の素晴らしさを存分に認識する事となった。30年前、私がこのチュークを訪れた時、彼ら現地人の日本人に対する尊敬の念をひしひしと感じたものだ。多くの先達者が生涯をかけて築き上げた日本人の財産である。
 これら数多くの移民による日本人の活動に対し、小弁の現地人社会での生活・活動は異彩を放っていた。たった一人、常に命と引き換えに未開の現地人社会の中に入り込んで行ったのである。サムライ・小弁の名は広くチューク諸島に鳴り響いていた。かつて、私が日本人の誇りを感じたと同様に、おそらく多くの日本人達が小弁の築きあげた日本人像に誇りを感じた事であろう。
つまるところ、己の存在のみが頼りのこの世界で、小弁の生き様は私にとってとても大きな模範と成るところである。が、しかし、そのスケールの大きさ、凄さには完全に脱帽する。
小弁の生き様は全く驚嘆に値する。『生死超越日常茶飯事、何事かなら成らざらん』 
小弁の生き様を思うにつけ、この言葉がいつも脳裏を掠めてゆく。自分もこのチュークに来てはやくも30年が経とうとしている。時代の相違であろうか、あるいは度量の相違なのか、私の足跡は小弁の足元にも及ばない気がする。今はただ、小弁や先人達の築いた日本人像をけがすことなく、日本人の素晴らしさを伝えて行きたいと願う。

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去年の1月から7月まで、産経新聞の新聞小説として連載された森小弁の物語、タイトルは『ダン吉』。

その『ダン吉』が、『冒険ダン吉になった男・森小弁』と名前を変えて、新刊本として8月に刊行された。

今回の『作者と行くトラック諸島の旅』は、そんなダン吉ファンの集まりでもある。

小弁ゆかりの地を訪ね、小弁が勇躍したトラックの海を巡り、その子孫たちと交流し、夕食時には毎晩楽しい懇談が続いた。

同好の志を抱いた者たちは、早くも作者を囲んで同窓会を開こうと意気投合した。

ツアーに参加した全員が正に、冒険ダン吉になった男たち、であった。

かつて子供たちに夢と希望を与えた『冒険ダン吉』は、今もその故郷にあり、時空を超えて我々に夢と希望の何たるかを教えてくれる。

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コベンがトラック島に上陸して今年で丁度120年になる。

トラックに上陸して7年目の29歳の時、13歳の女を娶ったコベンの子供は、男6人・女5人の11人。
そこから派出したコベンの子孫はすでに3000人を超える。

港を牛耳っているのもコベンの子孫なら、空港を牛耳っているのもコベンの子孫たちだ。
一般社会から財界、政界までコベンの血はチュークの隅々まで脈打っている。
現在のチュークからコベンの血を引く者たちとその配偶者を除くと、チュークの社会はもぬけの殻になってしまうほどである。
そして彼の血を引く者たちは今、チュークを飛び越えて連邦国家にまで波及しついに大統領にまで上り詰めた。

今回、ダン吉ツアーの初日、エマニエル・モリ大統領はじめ、シゲル・モリ上院議員の音頭で、モリファミリーのお歴々と団員全員の70名にも及ぶ朝食会が催された。
全てモリファミリーからのご招待である。
しかも、最終日の夕食もモリファミリー主催で盛大に行いたい、との申し出を受けたが、ツアーの都合上丁重にお断り申し上げた程である。
それでは、、、と、今度は島内観光の途中、モリファミリーの迎賓館で和やかに懇談会が催された。

たった1人の男の血からこれだけの社会が生まれた事に畏怖にも似た畏敬の念を感じる。

正に日本男児ここにあり! である。

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『冒険ダン吉』・・・戦前・戦後の日本で人気を博した少年漫画である。

真意は定かではないが、漫画『冒険ダン吉』が大流行したころ、トラック島でダン吉と同じような生き様をしていた1人の男が居た。土佐の出身、1892年(明治25年)若干22歳で単身トラック島に乗り込み、トラック島に一生を捧げた男・森小辨(モリ コベン)である。
戦後になって、NHKのラジオ番組や西田敏行主演の映画等でも、冒険ダン吉として紹介されたことがある。

そんな小辨の一生を描いた小説が昨年の8月、産経出版社・将口泰浩氏より刊行された。
その名も『冒険ダン吉になった男・森小弁』今から100年以上も前のトラック諸島が舞台だ。

そして今月、『作者と訪ねるトラック島のツアー・ダン吉ツアー』が盛大に催行された。
総勢50名にも及ぶ大部隊である。
ダン吉の故郷・トラック島(チューク諸島)の紹介も交えてその模様を今日から3回にわたってご案内していきましょう。

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