2010年10月

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この名前から植物を連想するのは、ちょっと難しい。

熱帯地方特有の植物で、葉を切り取り、適度な水分を与えておくと、葉から発芽すると言う特性を持つ。
無性生殖性の植物だ。

釣鐘や灯篭状の花を咲かせるところから、別名『トウロウソウ』
あるいは、葉っぱから発芽するところから『ハカラメ』とも呼ばれている。

植物好きの友人から、この事を教えてもらい、ずっと気になっていた。
ところが最近になって、偶然にもホテルのキャンパス内でこれを発見した。
早速、数枚の葉っぱを失敬し、野生蘭の植木鉢に差していたところ、見事な新芽が伸びてきた。

なかなか花が咲かないと言うが、これからが楽しみだ。

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10月最後の金曜日がチューク州のフルーツデイに設定された。

今日はその記念すべき最初の日。

第一回のフルーツデイにちなみ、懐かしの農作物の『品評会』が催された。

かつての日本時代から引き継がれた品評会が盛大に行われていたのも、20年ほど前までで、最近は殆ど見なくなっていた。
その品評会が、フルーツデイの設定に伴い復活したと言うわけだ。
その名も、現地語で『ヒンピョウカイ』
チューク諸島内の各地から、自慢の農作物が集まった。

お祭り好きの私にとっては見逃すことはできない一大イベントだ!
早速、妻や観光局の友人を伴い、見学に行った。

会場はすでに沢山の見物人やお客でにぎわっている。
珍しい作物に触れながら、現地人との楽しいやり取りの中、めぼしい農作物を入手する。
ちょっと遅れて行ったため展示物の数は減ってはいたが、それでも久しぶりの品評会に心が弾む。

今回は復活第一回目とあって、展示物もイマイチだったが、来年からは盛大に行う、と、関係者の鼻息も荒い。

『品評会』の景品で手にした農耕機具を掲げて喜ぶ現地人達。。。
今日からより一層の農耕に励もう、と、一致団結した。

来年の品評会が今から楽しみである。

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  母の生まれた住所は、「南洋トラック諸島 夏島 南興区」とのことです。
  母は夏島で生まれ、引き上げの5歳まで、トラック島で暮らしていました。
  母は引き上げ時に赤城丸に乗り、爆撃を受け、海を数日間漂流し、その間に家族4人の行方が分からなく
  なってしまいました。 亡くなった祖母は当時35歳、姉は8歳、 弟3歳、妹は1歳でした。 
  慰霊は、母の母と兄弟3人になります。祖父は民間人で、夏島で鰹節の缶詰工場を営んでいたそうです。

トラック島に慰霊に行きたい、と言うお問い合わせを頂いた時、ちょっと気になった事をお聞きしたところ、上記のようなご返事を頂いた。

太平洋戦争末期、トラック諸島はアメリカ軍による未曾有の大空襲を受けた。
日本への引揚船『赤城丸』はトラック環礁を出た途端、アメリカ軍の猛攻により沈没、太平洋の底深く姿を消した。
『赤城丸』には、戦地を離れ日本に逃れる民間人の女・子供達800人以上が乗りこんでいた。
助かったのはわずかに70数名、その殆どが還らぬ人となった。

爆撃を受けた時、母は子供達に救命胴衣を着せたが、親子はすぐに離れ離れになってしまった。
3歳の弟は力尽き、5歳の幼女・ヨネ子さんの目前で海中に沈んで行った。

・・・そして、あれから65年。

ヨネ子さんは娘を伴い、亡き母、8歳だった姉、幼かった弟と妹の慰霊にトラック島の海に帰ってきた。

そこには丁度、親族を戦争で亡くした遺族の方達がヨネ子さんと同じように慰霊の旅に来ていた。
トラック島を去る日、慰霊団の方達の合同慰霊祭に参加させて頂いた。

4本の線香にゆっくりと火を点けるヨネ子さん。
4本の線香にゆっくりと語りかけ、静かに祈る。
4本の線香からゆっくりと昇ってゆく煙の中に、地獄の海の光景と、愛する母や兄弟達の面影が去来する。

慰霊が終わり、65年間の自分の人生を明るく語るヨネ子さん。
きっと、姉妹や弟の分まで、精一杯明るく生きてきたに違いない。

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願えば叶う!

ワカサギ軍団がバショウカジキを釣りあげた!!

イチローが大リーグに挑戦した2001年の夏、とある男性グループがチュークの海にやってきた。

木曽川を下り、無限の夢と希望と酒の肴を求めて、南の海に乗り出した。

少年の心を持った優しい男たちの釣りの旅、、、

それまでのワカサギ釣りから、底抜けに明るい、年に一度の南洋釣り祭りが始まった。

美味しい酒を飲むために釣る。
美味しい肴を食べるために釣る。
大きな魚を釣るために技を磨く。

釣った魚で夜な夜な繰り広げられる南洋の宴は、ワカサギ軍団の恒例行事となった。

そして10年・・・。

技よし、道具よし、気分も上々、、、そして何よりも抜群のチームワーク!

今年はやむなくメンバーが1名欠けはしたが、、、洋々機も熟した!

イチローが10年連続200本安打を樹立したその1ヶ月後、我らが軍団もついに金字塔を打ち立てた!

ワカサギを釣っていた男達が、なんと2メートル40センチのバショウカジキを釣り上げたのだ!!

刺身に鍋に唐揚げに、そして、カジキマグロのバター焼き、、、
テーブルには釣った魚のオンパレード、、、
チュークを離れる最後の晩餐はまたしても大いに大いに盛り上がった。

これでしばらくは、酒の肴に事欠かないだろう・・・ナ!(^^)!

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『思い出の地を訪ねるトラック諸島』

そんなタイトルのツアーが、JTBより企画・発売された。
そして、今月は早くも2本のツアーが決定し、最初の1本目のツアーが先週催行された。

当然ではあるが、参加者の全てが戦後生まれの方達である。

かつて、南洋群島と言う日本の統治地の中に、トラック島という所があった。
日本海軍の一大基地が設けられ、たくさんの日本人が住んでいた。
戦前の国語の教科書には、『トラック島便り』と言うページがあり、南の島の風物や景色が紹介され、日本中の子供達に夢を与えたと言う。

現在の平成天皇も御幼少の頃、『トラック島便り』を興味深くご覧になられたとお聞きしている。

『思い出のトラック諸島』はそんな戦前の方達にとっては、子供のころを思い起こさせる懐かしいフレーズでもあった訳だ。
そんな一般の方達に交じって、正真正銘の『思い出の地』を絵に描いたようなお客様がいらした。
彼の父は、当時の南洋群島の貿易を一手に引き受けていた『南洋貿易(通称・ナンボウ)』のトラック支社長だった。
そして昭和8年10月、彼は当時のトラック島の中心地だった夏島(現・デュブロン島)で生まれた。
かれの戸籍抄本には今も、出生地・夏島がはっきりと明記してある。

自分や妹が生まれ育った家屋敷、一緒に泳いだであろう家の前の海、父や母が活躍した会社やお店の場所、会社の専用桟橋など、家族ゆかりの地を余すところなく見学する事ができた。
トラック島を離れる日、賑やかにお別れをするメンバーの中に混じって、別れの言葉を告げる彼の目がうるんでいたのが今も脳裏に焼き付いている。

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