2010年07月

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トラック島の終戦にまつわる話を書いてみないか・・・。

とある新聞社の方からそんな話を頂いた。
話がとんとん拍子に進んで、月刊誌『正論』に掲載される事になった。

8月1日発売の9月号で、タイトルは以下の通りだ。

***終戦65年特集
***秘話トラック島に残された六十五年目の大和魂

これまでにもインターネットマガジンなどに、短編のエッセイを50編ほど発表してはいたが、
本格的に、公のメディアに載るのは、これが初めてである。

トラックを愛しトラックに長く住む者の視点からのメッセージだ。

最終原稿を送り出した今、期待と不安が少しずつ膨らんでいる。

私の処女作です。

是非ご覧になってください。

POCOSUENAGA こと、末永 卓幸(すえながたかゆき)

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先週、中国から使節団がやってきた。
広東州とチューク州の姉妹関係を結ぶためである。

これまでに中国人の知り合いが居るにはいたが、これだけ大勢の中国人達を一度にお世話したのは初めてだった。
そして、、、国民性の違いをいやと言うほど、思い知らされた4日間でもあった。

国と民族、それぞれに歴史が違い文化が違う。
それでも・・・、それでも、基本的に人間の常識や良識はそれほど違わないだろうと、タカをくくっていた私の精神は見事に打ち砕かれてしまった・
中国政府との外交に難航している日本政府の在り様がなんとなく理解できたような気がする。

まずは人を信じ、信頼関係を尊ぶ日本人の素晴らしさをしみじみと感じさせてくれた、友好親善団だった。

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サタワン島に上陸して、驚かされた事がいくつかある。

まず最初に驚いたのは、見事に管理されたクロトンの並木道である。

比較的民家の多いところも、全く民家が見当たらないところも同じように、島を貫く通りの両側に、きちんと手入れされたクロトンの並木が続いていた。
クロトンにはたくさんの種類がある。
トラック(チューク)本島でも、日本時代の中心地だった夏島をはじめ、いたるところであでやかな葉っぱのクロトンを見かける事が出来る。
日本時代、多くのクロトンが移入され、住宅や庁舎、公園、学校などに観葉植物として数多く栽培されたからである。
そんなクロトンの中でも、サタワン島の通りに植えられているクロトンは、最も綺麗なものを使っている。
通りから民家に入る小道まで、そして家々の玄関までそれは続いている。

聞くとそれは、日本時代から続いている習慣だという。
『サタワンの人達はそれがとてもいいことだと思っている。だからみんなで続けている。』とも言う。
言うは簡単な事だが、これだけの事を続けて行くという事は、並大抵の努力ではない。
島の人達の心が1つにならなければ、到底できる事ではなし、それなりの努力が必要だ。

私達がお世話になった家は、まだ建築途中の未完成の家だった。
当然、屋敷周辺もまだ十分には整備されてはいない。
ところが、通りから続く小道に沿って小さなクロトンの苗木が早くも整然と植えられていた。

島の北側に小さな高校がある。
この高校でも意外な光景を目にした。

女生徒達がそれぞれミシン(足踏みミシン)に向かって裁縫の授業を受けていたのである。
数えてみると10台はあろうか。
傍らでは、針と糸を使っての裁縫の練習に余念のない女生徒達もいる。
その授業に使うために用意してあるのだろう、良く見ると、教室の隅の方には、たくさんの生地が積まれているのが見える。
恵まれた環境にあるトラック(チューク)本島の高校でもこのような光景を目にした事は無い。

こんな文明から隔絶した離島で、しかも限られた予算の中で、これだけのミシンを保持し、維持管理している彼らの能力と努力には驚きを超えて、畏敬の念さえ覚えたものである。

そしてもう一つの驚きの光景・・・。

クロトンの通りを中心にして、パンの木やバナナが茂る林の中に点々と民家が散在している。
その庭先にはなんとソーラーパネルがあり、飲料水を取るべくホースとタンクがきちんと設置されている。
しかもどのパネルも新品同様にきれいに整備してあるではないか。

この光景を見て私が驚いたのには訳がある。
2年前、東京のロータリークラブから、チュークの島々にたくさんのソーラーパネルが寄贈された。
そのセレモニーに私も出席しており、使用方法、管理方法などを現地人に説明し、指導した経緯があった。
そして1年後の昨年、日本ロータリークラブの機関誌の取材で、寄贈されたソーラーパネルの調査を行った。
時間や予算の制約から環礁内の離島のみの取材であったが、その結果は、惨憺たるものであった。

そのソーラーパネルが、チューク環礁から400キロも離れたサタワン島で生き生きと活躍していたのだ。
本来は、海水を蒸留して真水を取るというシステムであったが、サタワン島の民家の前に設置されたソーラーパネルの水槽の底には、純白の結晶がキラキラと光っていた。
なんと、真水を取り終えた海水から綺麗な塩の結晶が生まれていたのである。

戦争時代、日本人と共に力を合わせて苦難を乗り越え、大きな信頼関係を築いてきたサタワン島の人達。
その精神は今も、島を貫くクロトンの並木道に育まれ、若者達の教育に、そして島人達の心に、燦然と生き続けている。

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今回、サタワン島を訪れた目的の1つに、慰霊碑と戦跡の調査があった。

サタワン島には戦時中、最大で1600名に及ぶ守備隊があった。

島には、桟橋や飛行場が建設され、陸・海軍の基地が整備されていった。
長さ2.6キロ、幅が最大でも700mと言う小さなである。
食糧事情を考慮し、その後、部隊の軽減はあったものの、それでも常時1000人を超える日本兵がこの小さな島に駐屯していたのである。
終戦の1年半前、トラック環礁同様にアメリカ軍の猛攻に晒され、やがて補給の道も断たれ、ただでさえ不足していた食糧は、平時の3分の1まで減少してしまった。
島に豊富に茂っていたパンの木や椰子の木なども、米軍の爆撃で壊滅的な被害を受けた。

必死の開墾の末、畑を作りサツマイモなどの作物を植えた。
収穫を待つ間、草の根、ネズミ、トカゲまで食べながら飢えと戦った。
状況は現地人達もまた同様であった。

しかし、このような状況下であっても、時の隊長・飛田大佐は、現地住民の食糧に手を出した者には厳罰で臨み、
むしろ現地人擁護の方針を貫いた。
おのずと現地住民の間にも、日本人への食糧援助の機運が高まり、双方の信頼関係がこの一大危機を乗り越えたのである。

終戦間際、島の北部に建立された『忠霊塔』という慰霊碑がある。
戦後、サタワン島に開校した高校の校章は、この忠霊塔そのものであった。

2日間のサタワン島滞在において、日本人に対する彼らの信頼と、戦後から引き継がれてきた日本人の良き習慣を、幾度となく見かけた旅であった。

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サタワン島に渡るとき、まず目についたのがカヌーであった。
島の周りを幾つものカヌーが、行き来しており、島影と海に溶け込むその姿は周りの景色にとてもよくマッチしていた。

島に上陸し、村の中を歩いていても至るところにカヌーがあった。
カヌーはパンの木で造られる。
一般にみられる通常の小型カヌーは、大きなパンの木をそのまま刳り貫いたものだ。
ジャングルを歩くと、そんな建造途中のカヌーが幾つも見受けられた。

最近では、こんな南の島にもエンジン付きのボートがどんどんが普及している。
そんな状況下であっても、この刳り貫きカヌーは、彼らの伝統的な社会に密着した、彼らの生活を支えるとても重要な物である。

お金も使わず、ガソリンも使用せず、いつでも誰でもが利用できる自然に優しい乗り物だ。

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とにかく、サタワン島の人々は物をとても大事にする。

限られた小さな島と資源と言う空間で大勢の人達が生きていくためには、何が必要か、どうすればいいか、と言う事を1つ1つの家族が、そして一人一人がよく理解しているのではないかと思われる。
食べ物にも、作物にも、植物にも、動物にも、そして人々の間にも心を込めて、愛情を込めて接しているのを強く感じる。

たった数時間の村の散策ではあったが、その思いはゆるぎないものに変わって行った。
簡素な生活であっても清潔さがにじみ出ているし、作物に至っては1つ1つ、とても大事に丹精込めて育てている。
まるで島そのものが1つの魅力的な生き物で、島人達は1つ1つの細胞として静かに呼吸をしているかのような思いに駆られた。
彼ら1人1人の気持ちがサタワンと言う理想の島を造っているのだ。

そして、さりげないこんな光景にも出合った。

ガイドにはいつも、タバコを切らさないように与えていた。
ところが現地人の常で、会う人毎に、1本、また1本と無くなっていく。
そんな折、とある家の中から『おーい、タバコを1本くれないか・・・』と声をかけられた。
ここで、チュークの男たちだったら、黙ってその辺りにポーンと放り投げて立ち去って行く。
ところがこのガイド氏は、わざわざ彼の近くまで行き声を掛けて、しかもわかりやすいところにとても丁寧に置いて行った。
たった1本のタバコを渡すのに、である。

思わず私は唸ってしまった!!

その後、注意してみていると、やはりタバコを所望されるたびに彼はとても丁寧に対応していた。

サタワンはいい所だ(@^^)/~~~

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サタワン島の西岸をボートはゆっくりと北上する。

沿岸のいたるところにカヌーを見かける。
海岸の砂浜に押し上げているものもあれば、椰子の木の下の浅瀬に浮かんでいるものもある。
そしてまた、我々のボートの傍を、音も無くゆっくりと滑ってゆく。
これだけでも気分はウキウキで、早くも心は桃源郷に来た気分だ。

サタワン島の北端、かつての日本軍時代の桟橋跡に上陸する。

話は通っているみたいで、数人の現地人が私達の荷物を抱えて、早速宿泊先の家まで案内してくれる。
桟橋から5分ほどで、ホストファミリーの家に到着。
まずは、サタワン島の椰子の歓迎を受ける。
チュークではいつも飲み慣れた椰子だが、事の他美味しい感じがする。

荷物を整理して、早速、村の散策に出かける。

これもまた、ガイドさんもすでにお待ちかねで、ニコニコとこちらの要望にこたえてくれる。
家から数分で島で唯一のメーンストリートに出た。
メーンストリートと言っても、もちろん電気も無ければ車も無い。
ただ・ただ、緑に囲まれた1本の道路が島の西側の集落を貫いて通っているだけである。

ところが・・・、なんと・・・、道路に出た途端、これまでの南の島の常識を覆す光景に早速でくわした! 
とにかく何もかもが綺麗なのだ!!

砂を敷き詰めた道路は整然としていて、ゴミ一つ落ちていない。
メーンロードから各家々に続く道も、道路の周りも、道端にあるバナナの木の周りも、パパイヤの木の周りも、そして大きなパンの木の周りも、その1ヶ所・1ヶ所、1本・1本まで、見事に手入れが行きとどいている。
見通しのきく限りの道路そばには、はるかかなたまでクロトンの見事な並木が続いている。

こんな世界を造り、見事に維持しているこのサタワン島の人達は、一体全体どんな人達なのか・・・!

この通りを見ただけで、早くも私たちの心は洗われるようだった。
チューク本島や周りの島々の風景に慣れた私たちの目には、何とも不思議な光景だった。
今日は遅い到着で、わずか数時間の散策であったが、もう何日も滞在しているような錯覚を覚えた。
それほど新鮮で驚く事の連続だった。

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