2010年01月

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とある民家の庭先に、いつまでも蕾(つぼみ)のままのハイビスカスがある。
今にも咲き終わって萎んだような格好で、真紅の大きな蕾をたくさん付けている。
朝見ても、昼見ても、夕方に見てもいつも咲き終わったような姿でひっそりと垂れ下っている。
きっとこのハイビスカスは夜に咲く種類なんだろうな・・・、そばを通るたびにそう思っていた。

ある夜、その家の庭先を通った時に、咲いている姿を見たくてそのハイビスカスを見てみた。
(._.)やはりもうすでに咲き終わったような同じ姿で、枝先にぶら下がっている。

ある日、この家を通りかかったとき、オバサンに聞いてみた。
『ねえ、この花はいつ咲いてるの? いつ見てもこうだけど・・・?』
『今、咲いてるよ! これが花だよ!』
『エッ・・・?!』

そうか、これが花だったんだ、こんな花もあったんだ・・・、
とその時初めて合点がいった。

南の島にも、夜咲く花はいくつかあるが、蕾のままで咲いている花に出会ったのは初めてである。
そう思ってよ~く眺めると、幾重かの閉じた花ビラの間からきれいな雌しべが出ているのが見える。
それからというもの、この家のそばを通るたびに、この風変りなハイビスカスを眺めている。

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チューク環礁は周囲200キロ以上もの大きな環礁で、その中には大小20個の島々に沢山の人達が住んでいる。一昔前、動力船が入って来る前は、それらの島々の行き来には、主に帆走カヌーや大型の刳り貫きカヌーが用いられていた。
そして今、時代の変遷に伴い、日本から輸入された小型のモーターボートが幅を利かせている。

そんな中にあって、今も変わらず昔ながらの小さな刳り貫きカヌーがまだまだ島人たちの大事な足や生活の道具として重宝されている。モーターボートで環礁内を走ったり、島々を巡ったりしていると、そんな素敵なカヌー達に良く出会う。
村々への移動、洋上での釣り、網を積んでの漁労、荷物の運搬、子供たちの遊びにと、今も島人たちの生活の中に溶け込んでいる。
お金もかからず、自然に優しい彼等の乗り物は、彼らが島で生きていく限りこれからもすたる事はないだろう。

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チューク諸島の大部分の島々では、まだまだ伝統的な自給自足の生活が主流を占めている。
食べ物だけでなく、広く彼等の生活すべてに、自然と一体になった暮らしが営まれている。

今日はそんな島人たちの自然な暮らしぶりをご紹介しよう。

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年明け早々に不景気風が吹き荒れている。
記録的な寒さも、どうも気候だけの話ではなさそうだ。

ウソっぱちでもいい、少し景気のいい話でもしよう!!

南の島にはかつての財宝が眠っている。
そんな財宝の数々をご紹介しよう。

有史以来、貝は人々の暮らしの中でとても重宝されてきた。
特にタカラガイの類は、古代より世界中の地域で貨幣として珍重されてきた。
現在もなお、通貨として使用されているところもある程だ。

小さくて持ち運びに便利で、美しく耐久性に富んでいる事が、貨幣として利用された大きな理由とされている。しかも偽造される心配もなく形が一定で、自然界から大量に生産される。

貝貨復活!!
もしそんなニュースでも流れたら・・・、と、はかない夢を見ている私であります。

そんな財宝の数々、ごゆっくりとご鑑賞ください。

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日本時代のチュークは、トラック島と呼ばれ、トラック環礁のすべての島々に日本名が付けられていた。環礁の大きさは、日本の神奈川県とほぼ同じ面積で、その中に大小合わせて約100個の島々がある。人が住んでいる島が20島、あとはすべてが無人島だ。

ご紹介した地図は有人島のみの掲載だが、当然、このほかにも沢山の無人島があり、そのすべてに日本名が付けられていた。

まず、トラック島は都洛島(又は、杜洛島)。
石碑に刻まれたこの名前は今も夏島に残っている。

環礁の北が北島、南が南島、そして北から順番に、干支の十二支の呼び名が並ぶ。
すなわち、子島、丑島、寅島、・・・の12島に始まり、
日本古来の呼称、春日島、住吉島、高砂島などなど・・・。
後は例によって、木や花の名前で、椿、水仙、欄、薄、楓、・・・・・。
そして家族の名前の、兄・嫁・妹、婿、双子、・・・・。

今はもう一般には全く使われなくなってしまった名前だが、
慰霊や戦跡巡りの日本からのお客様の場合には、まだまだこの日本名が効力を発揮する。

他では全く使用されていないこの日本名を覚えておくのは、私にとっては大変重要なことである。

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普段はあまり訪れない島の奥地の集落を散策した。
カメラとペットボトルの水を小さなリュックに入れ、のんびりと歩く。
今年になって初めてのハイキングだ。

山の緑の空気と海の青い空気を胸一杯に吸い込んで、島の人達と語らいながらのんびりとのんびりと歩いて行く。
何度か訪れた場所でも、そのつど新しい発見や出来事に遭遇する。
そんな景色や出来事を丹念にカメラに収めながら歩いて行く。
そこには島人達の生活の原点がある。
そんな一瞬、一瞬に出会えた時がとてもうれしい。

今年も又、趣味と健康を兼ね、仕事の合間を縫ってはのんびりと島の中を歩いてみたいと思っている。

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貝には様々な種類と形がある。
皆さんが貝と聞けば、独特のデザインに施された美しい貝殻達をすぐに思い起こす事だろう。

ところが中には、これでも貝か?と思うようなとても変わったやつもいる。
その代表の1つが、ヘビガイ、その名もスネークシェルだ。
その形状たるや、クネクネと曲がってサンゴや岩に取り付き、まさに蛇そのものである。

本物の蛇はどうも食べたいと言う気持には到底なれるものではないが、
なんと、このヘビガイときたら数ある貝の中でも味は絶品ときている。
現地人たちにとってもパンモチやタロイモの現地食の貴重なおかずとなっている。

大きく開いた口の中には、コリコリとした身がたっぷりと詰まっている。
干潮時のアウトリーフ、女も子供も総出でこのヘビガイ取りに出掛ける。
ヘビガイのむき身を食べながら、広大な環礁を歩きまわるのは南の島のもう一つの醍醐味である。

こんな時、冷えた1本のビールがあれば、オー! 天国天国!!

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ミクロネシア連邦の東端にコスラエ(クサエ)と言う島がある。
お隣のポナペ(ポーンペイ)島同様に巨石遺跡をもつ伝説の島だ。

ミクロネシアの島々には、様々な日本人の物語がある。
ほとんどがここ100年前後の出来事で、それぞれに詳細な記録や伝承が残されているものが多い中、このコスラエ島には、そのものズバリ『日本人島王伝説』が今も語り継がれている。

今から100年ほど前に編纂された『南洋の風土』と言う書物に、とても興味深い記述がある。
1884年、当時の日本海軍練習艦がコスラエに立ち寄った時の事、以下はその記述だ。

島王は我が軍艦を見るや、非常に喜びて来訪し、語りて曰く、口碑の伝うるところによれば、
我らは日本人の子孫なり、日本人は我らが祖先なりと、彼は溢るるが如き誠意を表わして衷心より歓迎し百年の知己同胞に遭遇したるが如き親交をを示したり。島王曰く、我が島は、未だどの国にも属せずと。衷心日本帝国の統御を望むが如かりしと云う。

また別の記述には、

正史に索むるも之を得ずと雖も、村長は自ら日本人の後裔以て任じ土民中にも自ら日本人の
子孫なりと称するものあり。
島民の体格顔貌は、日本人に似てあたかも帯黒黄褐色の皮膚を有す。毛髪は漆黒にして密生し、
眼孔窪む。彼らの眼光は概して鋭きも、虹彩色は日本人と異ならず。その音声亦日本人に似たり。
特に児童の嬉戯するを聞けば、その殆ど内地の児童と区別するを得ざるを知るべし。

そして言語の項では、

そは羅馬字の綴法に似て、發音は邦語に酷似す。故に島民の言語は、聞き分け易く、邦語も亦彼等の耳に入り易し。

どうです、皆さん!
南の島の日本人伝説!
一緒に語り合いませんか!!

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