2009年02月

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もう1ヶ月以上も前の話だが、水栽培に失敗したカイワレ大根の種を、肥料代わりにでもなればと、軒下菜園にばらまいた。
ところが捨てたはずのカイワレダイコンの種から一斉に芽が出始め、食べても食べても追いつかず、あとからあとから発芽しては、ドンドン大きくなっていく。それもそのはずで、処分したカイワレダイコンの種は大袋にいっぱい入っていたのである。

こうなったら最後まで見届けてみようと思い、どれだけ大きくなるのか、いったいどの程度までおいしく食べれるのか、毎日毎日、手を替え品を替えして食べているところである。
当初は新芽の2葉だけだったかわいいカイワレダイコンも、日に日に成長し、いっぱしの大根の葉っぱとなっていった。
最初の頃はサラダだけで食べていた葉っぱも、そのうちに味噌汁やスープ、茶碗蒸しの具となり、今はおひたしや、漬物、野菜炒め、と大活躍である。
発芽してから今日で45日。
『南洋カイワレ』はまだまだおいしい。

ところで、話は変わってお海の話。
ヒラアジの仲間でカイワリと言う魚がいる。
このカイワリ君、南の島では、『南洋カイワリ』と呼ばれており、
刺身、塩焼き、から揚げ、酢の物、潮汁、となんでもござれの超高級食材である。
そこで、目下の関心事は、この『南洋カイワリ』のスープに、これも我が家秘蔵の『南洋カイワレ』
を散らした、『南洋潮汁』を食することである。

唯一の問題は、『南洋カイワレ』が旬のうちに『南洋カイワリ』をゲットすることである!!

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月末の金曜日。
キリスト教ではラストフライデーと言って、どの教会でも大きなミサが執り行われる。
島人のほとんどがクリスチャンと言われるここチューク諸島では、とても重要な日となっている。

ところでもう一つ、この日は島のお年寄りが最もパワーを発揮する日でもある。
今日と言う今日は、普段老人の前で大きな顔をしている若者や家族も老人の言いなりである。
それは毎月のラストフライデーは年金支給日だからである。
現金収入の少ないここ南の島にあって、毎月確実に支給されるお年寄りの年金は、一族にとってはとても大事な収入となる。
お年寄りも心得たもので、この日ばかりはもらったばかりの年金を手に、島中のストアーをハシゴする。
普段はあまり食べれない家族の欲しがる食べ物、孫のお土産、等ナド・・・。
有り金を叩いて家族のために奉仕する。

この日のモエン島の港周辺では、各島々から勇んで乗り込んで来た老人たちの笑顔を随所で見かけることができる。まさに老人パワー炸裂である。

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最近、陸からの釣りに凝っている。
例年の事ではあるが、12月以来貿易風が吹き荒れていて、なかなか好きな釣りにも行けない。
しかも、ホテル周りの海岸は、今年から釣り禁止となってしまった。
そこで、うちの前の海岸からチョイチョイ小物釣りを楽しんでいると言う訳だ。
ところがこれがなかなかのものでバカにできず、今年になってからは、ほとんど魚を買わずに済んでいる。これが本当の『趣味と実益を兼ねる』と言う事だろう。

今日も満潮時の午後を狙って、目の前の海岸から投げてみた。
何度かチョイスした後の10投目、かなりの手ごたえが来た。
手前に岩場が張り出しており、小物ロッドで引き寄せるにはにはちょっと心配だ。
昨日も、リーダーを切られ悔しい思いをしている。
その辺を考え、今日はちょっと強めのリーダーを組んでいる。
リーダーの強度と柔らかいロッドの柔軟性に全幅の信頼をおいて、思い切って足もとまで引き寄せた。
最近、チョコチョコと来ては、毎日釣り上げているので、現地人も興味津津で見ている。
今日なんぞは、周りにギャラリーを従えての公開フィッシングである。

なかなかいいサイズのギンガメアジ(ヒラアジの仲間)だ。
南の島ではおいしい部類に入る魚である。
おかげで、これで今夜もおいしい肴にありつけた。
今は妻と2人だけの食事、これだけのサイズがあれば充分である。
今夜は片身を唐揚げにし、片身は刺身用にキープした。

明日の刺身ももうすでにOKだ!

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チューク諸島・南の島の写真館、今日はプルメリアです。
ハイビスカス、ブーゲンビリアと並んで、南の島の代表的な花です。
いろんな色合いがあり、香りも良くて、レイ(首飾り)やマラマー(頭飾り)には定番の花です。
プルメリアを一輪カクテルグラスに浮かべれば、香り豊かなトロピカルカクテルの出来上がりです。

さあ、今日は下手な講釈を並べるより、この南国の美人達の姿をとくとご覧ください。

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ヤモリを釣った!
初めてこの事を耳にした時、釣りには一方ならぬ興味を持っている私としては、どうにも聞き捨てならぬ言葉だった。『ヤモリを釣る!』いったいどうして釣るんだ!

この言葉を発したのは、前回のブログでおなじみの、友達を訪ねてチュークにやってきたあの3人組の面々だった。尋ね人のフレッドと10年ぶりの再開を果たした3人組は、その日のお昼からオローラ島と言う無人島に泊まりに出掛けて行った。

翌日の朝、他の泊りのお客様をご案内して、オローラ島に行った私を待ち受けていた3人組は、
さっそく昨夜の無人島での出来事を楽しそうに話し始めた。
3人で1ケースのビールを用意していたが、あまりの快適さに事の他お酒が進み、瞬く間に24本のビールを飲み干してしまった。やることもなく、ロッジの周囲に徘徊しているヤドカリと遊んだり、ヤモリを眺めているうちに、一人の男(タイヤノゾウリ氏)の脳裏に、とある面白そうなゲームが思い浮かんだ。

そうだ、ヤモリを釣ってみよう!!

タイヤノゾウリ氏の趣味は、フライフィッシングである。
小虫に似せたルアーを振り回し、魚をだまし釣る、あの釣りだ。
見ていると、目の前に徘徊しているヤモリは、さっきから盛んにハエやチョウなどの小虫に飛びついては食べている。なんとこれはフライフィッシングの原点ではないか!
そう考えたタイヤノゾウリ氏は、ササ・フレッド氏、ミナミノコマチを説得して、さっそく道具の製作に乗り出した。

ロッドにはヤシの枯れ葉の芯を利用した。
これだとかすかな振動を与えただけで、先端に自然な動きが再現できそうだった。
小虫の動きを現すフライフィッシングの一番大事な事だ。
問題は、小虫に似せたルアーである。
これもタイヤノゾウリ氏の経験からすぐに解決した。
目の前にあるタバコのフィルターを細かにほぐしヤシの葉の先端に挟み込んでみた。
手元を微妙に振ると、何と先端ではあたかも白い小虫や小さなチョウが飛んでいる様な錯覚を与える。

これならイケる!!
タイヤノゾウリ氏は確信を抱いた。
ササ・フレッド氏、ミナミノコマチの為にもそれぞれ仕様の違ったロッドを作ってあげた。
こうして、カナディアンスタイル、ヨーロピアンスタイル、アメリカンスタイルの3本のヤモリ用のロッドが完成した。
ヤモリのことは、現地語で、『マッチャン』と呼ぶ。
現地語にちなんで、これらのロッドの総称を、『マッチャンロッド』と名づけた。

さあ、ヤモリ釣りのスタートである。
まずは、師匠のタイヤノゾウリ氏が、手本を示す。
1mほどのマッチャンロッドの手元を微妙に振ると、竿の先端では白い小虫が小刻みに飛んでいる。
ヤモリの視線が竿の先端の小虫にくぎずけになった。
竿の動きを止めると小虫も静止し、ヤモリがゆっくりと竿の先端に近づいてきた。
と、見るや、いきなり竿の先端のフィルターの小虫に食いついたではないか!

『やったーーー!!』

3人は子供のように手を叩いて飛び上がった。
もう、やめられない!
タイヤノゾウリ氏の模範演技を真似て、ササ・フレッド氏、ミナミノコマチも時間を忘れて
ヤモリ釣りにのめり込んでしまった。
こうして3人組のヤモリフィッシングは延々4時間にも及んだのである。

ヤモリフィッシングを語る3人の表情には、これ以上無い楽しさがあふれていた。
オローラ島のバルコニーのテーブルの上には、これまた昨夜の興奮を物語るかのように、3本の『マッチャンロッド』が、先端に白い飾りをつけて並んでいた。

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男性2名・女性1名の楽しい3人組のグループがチュークにやってきた。
妻のカオルが電話でツアーのご相談を受け、とりあえずは島内観光に行く事となった。

お会いしてみると初対面からテンションが高く、どちらかと言うといつもおふざけモードの私の好みにぴったりの方たちである。
もう一人の慰霊にいらしたおじいちゃんも巻き込んで賑やかな島内観光が始まった。
ご案内をしていて、楽しく仕事はできるのだが、3人組の今回のツアーの意図がいまいちはっきり掴めない。お客様の目的によって話す内容も若干変わってくるので、どうしたものかとちょっと考えていた。
そんな矢先、ツアーも半ばに差し掛かった頃メンバーの1人・s氏が、
『実は人を探しているんです。』と、1枚の紙切れを私に差し出した。
そこにはきれいな字で、現地人の名前が書いてある。

『実はこの人を探しているんですが、どうもうまくいかなくて困っています。』
『今回の旅行は、この人に会いに来たんです。』
『10年前に、彼が日本に研修に来ていて知り合いました。』
と丁寧に私に説明してくれる。
この話を聞いた時点で私は『ん・・・?』と頭にひらめくものがあった。
フレッドと言う男の名前にも覚えがあったがイマイチはっきりとは思い出せない。
その時にはまだそのことは伏せておき、ローカル市場を訪ねた時に、自分の頭の中に引っ掛かっていた疑問を知り合いの現地人にぶつけてみた。
すぐに反応があった。
もう戸口に来たようなものである。
あとはそのうちに行ってノックすればよかった。

『だいたい判りましたよ!』
『観光の時間内にはっきりお知らせします!』
私の言葉に3人は、『えっ!!・・・』と驚いた様子で、顔を見合わせていた。
昨日一日探し回っても糸口すら見いだせなかった現地友人の所在が、そんなに早くわかるものなのか??名前を書いた紙を見せて歩き回った自分たちの事も考えて3人は、半信半疑で私を見つめた。
観光の途中、尋ね人・フレッドの親戚の店に立ち寄り、かねてから知り合いの女に聞いてみた。
すべてが明らかになった。
フレッドは秋島(フェファン島)の高校で、日本語の先生をしていた。
今日のうちに秋島のフレッドに連絡(手紙を託送)を取り、明日の朝一番にこちらに来れるよう手筈を整えた。
勢いに乗った3人は、後半の島内観光が前にも増して賑やかなものとなった。

翌朝、ホテルで待つ3人の心に一抹の不安がよぎる。
『人違いだったらどうしよう・・・。』
一人の現地人が、ニコニコとして入ってきた。
そこには10年の年輪を刻んだフレッドの顔が確かにあった。
劇的なご対面が実現した。
手を取り合うs氏とフレッド。
あとの2人もニコニコ顔だ。
すでに予定が入っていた3人は、翌日フレッドの住む秋島を訪ねる約束をして彼と別れた。
ご対面を済ませた3人は、かねての予定通り無人島泊の旅へと出発した。

そしてチュークを出発する最後の日、迎えのフレッド達のボートで秋島に向かった。
予想だにしなかった大歓迎が彼らを待っていた。
熱帯のきれいな生花や貝殻でで作られた首飾りを1人・1人に掛けてもらう。
歓迎の席には、食べきれないくらいの現地のごちそうが並んでいる。
〝ホテルで朝ごはんを食べなきゃよかった!!”
3人の頭の中は、揃ってそう悔やんでいた。
たった一晩の間に、これだけの準備をして、歓迎してくれるなんて・・・・。
日本では考えられない心からの彼らのおもてなしに、胸が熱くなってくる。
『来年もう一度ここを訪ねて、御恩返しをしよう!』
3人は心の中でそうつぶやいていた。

今日はもう、日本に帰る日である。
あまりのんびりとはしてはいられない。
後ろ髪をひかれる思いで秋島を後にした。
空港に到着し、手続きを済ませる。
『さあ、いよいよチュークともお別れだ!』と、搭乗口に並んだ時、
一人の女性が3人の元に駆けてきた。
秋島の女性だった。
最後のお別れに駆けつけてくれたのだ。
そしてまた貝殻で作ったマラマーを一人一人に掛けてくれる。
3人の頭の中はもう真っ白になってしまった。
あふれてくる涙を必死に抑える。

優しくほほ笑む女の顔を3人は無言で見つめた。
・・・私たちはきっとまた帰ってくるよ!

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1944年2月17日・18日の両日、トラック諸島は未曽有の大空襲に見舞われた。
2日間での爆撃機の数・延べ1200機以上。
この2日間で、民間人を含む1万人以上の日本人と、多くの現地人が犠牲となった。

そして、65年後の今日、2月17日、アメリカ軍と現地政府による慰霊祭が厳かに執り行なわれた。
アメリカ軍の犠牲者を読み上げる式典の中に、一人の日本人遺族の姿があった。
小林良弘・77歳。
彼の父は、65年前の戦闘で戦死し、今もこのトラック諸島の海底に眠っている。

彼の子供たちがまだ小さかった頃、『うちのおじいちゃんはどこにいるの?』
子供達や甥っ子達は、純粋な疑問を何度も何度も彼に投げかけた。
小さな子供達に戦争の事を話しても理解できない。
しかし、私が死んでしまったら父のこと(おじいちゃんの事)を教えてくれる者は誰も居なくなってしまう。子供達にも立派なおじいちゃんが居た事を教えてあげなくてはいけない。
それから彼は時間を作っては父のことを調べ始めた。
戦争の事。
父の生きた時代の事。
父の軍人としての軌跡。

父の経歴をたどって行くうちに、横須賀からトラック島に向かって出港したところで止まってしまった。
『父の眠るトラック島に行かねば・・・。』
トラック島行きを決意した。
父の命日にあたる2月17日・18日、トラック大空襲の日を旅行日と決めた。

彼の父は、巡洋艦・『香取』の機関士として乗り込み、65年前の2月トラック諸島の夏島に居た。
引き揚げ船団の護衛艦として夏島を離れる予定が1日遅れ、運命の2月17日の未明、内地に向け出港した。
まさにその時、敵の猛攻に遭い、奮戦むなしく船団もろとも海の藻屑と消えてしまったのである。
今回の訪問で、いままでおぼろげだったトラック島の事が体中に溢れるほどに吸収できた。
父の軌跡を追い、父が乗船していた『香取』の最後の航跡もたどることができた。

父は今もこの海に眠っている。
65年前、別れて行った父の顔が水面に映る。
子供や孫たちに、
『おじいちゃんは、南の島に眠っているんだよ』と教えてあげることができそうだ。

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島から砂糖が消えて無くなった!
ここ一週間の間に品薄となっていた砂糖が、ついにまったく姿を消してしまった。
昨日も島中のお店というお店をくまなく調べてみたが、どこのストアーにも、全く砂糖が見当たらない。
次の船便で入荷するまで、砂糖無しの生活が続く。
我が家でも2~3日前から砂糖は一切使わなくなった。
砂糖壺に僅かに残ってはいるものの、これは非常用に取っておくことにした。
コーヒーやティーにも砂糖を入れていた我々は、コーヒーも、紅茶もしばらくはお預けである。
もちろん砂糖を使う料理もご法度。
そのうち、お店のパンコーナーも無くなってくるかも知れない。

日本人の目から見れば大変な事と思われがちだが、現地人は何食わぬ顔で別段そんなに困った様子でもない。もともと、そんな贅沢な生活ではないし、砂糖が一ケ月や二ヶ月無くなったとしても大したことではない。我が家でも、砂糖が無くなった生活をむしろ楽しんでいる。
なければ無いなりにやっていけばいいのだ。
砂糖1つが無くなっただけで、如何に我々が贅沢な暮しをしていたかを思い知らされる。

これからいつまで続くか、砂糖なしの生活をエンジョイしてみたい。

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