2008年05月

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28日の木曜日、卒業式を2日後に控え、ザビエル高校の文化祭が2年ぶりに開催された。
ザビエル高校には、パラオ、ヤップ、ポンペイ、コスラエ、マーシャル、チュークなどミクロネシア各地から生徒達が集まっている。2年に一度行なわれるこのカルチャーデイ・文化祭にはミクロネシア各地のダンスや物品が展示即売される。生徒達はこの日のために、勉強の合い間を縫って猛練習を繰り返して来た。ザビエル高校には勉学だけでなく、郷土の伝統を生徒達で伝承する習慣がある。今年もまた、生徒達による郷土の踊りや芸能が披露され賑やかな一日となった。

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世界各地で米騒動が起こっているが、こんな太平洋の孤島にまでその波は打ち寄せ始めている。先月、島からライスが消えて1ヶ月後、新たに入荷したお米の値段に島の人達は一様にショックを受けた。
なんと一気に70%から80%もお米の値段が高騰したのだ。最近ではライスを袋のまま売っているストアーは少なく、どのお店もビニール袋に小分けして販売している。
トラック島出身のモリ大統領からは、国民に『ローカルフードを食べなさい』と、異例の通達も出とか。
かつて、戦後の困窮の時代、日本の池田首相が国民に向って『貧乏人は麦を食え』と言った言葉はあまりにも有名だが、現金収入の少ない南の島の人達には、昨今のガソリン高騰と言い、大変頭の痛いことではある。若い人達を中心に、お米の食生活が徐々に浸透し始めた南の島では大きな問題である。
しかし、チュークには幸い全島民が食べても余りある程の豊富なローカル食がある。
今は、池田首相の言ったように『分相応の暮らしをしなさい』、と言う事かも知れない。

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ルアーを使った大物釣りには、エサ釣りの他に、トローリング、ジギング、キャスティングなどがある。
最近はジギングが盛んで、チュークにいらしゃる釣りのお客様の中にもジギングの方が多い。
そんな中、久し振りにキャスティングをメーンにしたお客様がいらっしゃった。
私もキャスティングは大好きで、チョットした時間があればよくルアーを放り投げては遊んでいる。
さて肝心のキャスティングツアー、久々に気合十分のガイドをさせていただいた。
その甲斐あってか、連日のG・Tゲットでお客様にも充分にエンジョイして頂いた。
写真は4匹目のロウニンアジ

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赤道から北、東西南北700㌔に亘って広がるチューク諸島。
主島のモエン島からは300~400キロも離れた太平洋の孤島にも沢山の人達が生活している。
昨日、そんな離島に船が出た。数ヶ月に一度、あるいは半年に一度、といった頻度だ。
家財道具や買い物の荷物、誰もが目一杯の荷物を抱え、乗船の順番を待っている。
この日の港は郷里の島に帰る離島の人達で溢れかえっていた。
就航間際の1千tの貨客船のデッキは端から端まで人と荷物で埋め尽くされている。
これから一昼夜、外洋の荒波の中、スコールや夜の寒さをしのぎながらの船旅である。
女・子供も居れば赤ちゃんも居る。人事ながら気になる事ではあるが、彼らの海洋民族としての資質を考えるとまた、うなずける事でもある。

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周囲200キロの広大なトラック環礁。
潮が引いた時のアウトリーフ環礁は格好の磯遊びの場所になる。
延々と続く浅い海では色とりどりのサンゴや魚、様々な生物等を簡単に見る事が出来る。
先週の土曜日、そんなアウトリーフの無人島に子供連れのご家族を案内した。
お昼前にアウトリーフのパスで釣りをする。初めて釣りを経験する8歳のケイト君。
大人を尻目に次々と高級魚を釣り上げてゆく。
釣りが終わったら、いよいよ憧れのアウトリーフの無人島に上陸だ。
何処までも続く白い砂浜と遠浅の海。
サンゴと魚に見とれているケイト君の前にいきなりマンタが現れた。水深は50cmちょっと。
大きなヒレを水面に出し、ウチワのように扇ぎながらケイト君の前をゆっくりと通り過ぎてゆく。
初めての釣り、初めて上陸したアウトリーフの無人島、そして初めて見るマンタの姿。
かつて軍艦に乗ってトラック島にやって来たお爺ちゃん。そのお爺ちゃんに連れられてやってきた南の島は、ケイト君にとってはきっとおとぎの世界だったに違いない。

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トラック環礁はかつての日本時代、海軍の一大基地となっていた。現在の中心地モエン島もその1つで、日本時代は春島と呼ばれていた。この島の東端の小高い山頂には日本時代の灯台が立っている。
もう今は使用されてはいないが、建物は当時の姿そのままに残っており、そこに立つと今も広いトラック環礁を一望に見渡す事ができる。日本時代の春島の名前を取って、この灯台は『春島灯台』と呼ばれていた。先日、仕事の合間を縫って、久し振りにその灯台に登って来た。ノンビリと半島の集落を散策しながら山間の路に入ってゆく。当時はふもとの海軍桟橋から山頂の灯台まで軍用道路が通っており自動車で登れた道だ。灯台の下には、今もドイツ時代の大砲が残っている。胸突き八丁、長い灯台の取り付け階段を登りきると一気に展望が開ける。真東には北東水道が外洋に向って大きく口を開けている。かつて、戦艦大和や戦艦武蔵などの艦船群がここを通ってトラック環礁に入ってきた。春島灯台は、日本海軍の艦船の道しるべとなった灯台だったのである。そして、2日間で述べ1200機にも及ぶ米軍の猛攻激を目の当たりに見てた灯台でもあった。今は時折訪れる観光客や学校の生徒達の格好のハイキングコースとなっている。

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チュークの人達は魚介類が大好きだ。
魚は何でも食べるし、タコ、貝、エビ、カニ、果ては海亀まで何もかもが大事な食糧である。
そのほとんどが、保存の利かない生ものばかりだが、中には、魚の干物や、タコや貝類を塩付けにした保存食もある。そんな中でやはりポピュラーに食べられている物にナマコの塩辛がある。しかし南の島のナマコは日本のナマコと違ってそのまま生で食べれる物ではない。めっぽう硬く、味も素っ気も無いしろものである。これを大量に取ってきて、まずはナイフでぬめりを落とし、柔らかくなるまでひたすら石で叩き続ける。こうして何とか食べれるほどの柔らかさになった物を塩付けにして保存する。
ナマコの塩辛の出来上がりである。しかし、こうして出来上がったナマコの塩辛も我々か弱い現代人の歯では噛み切る事すら出来ない。何百年もの間に培われてきた彼らの食生活には、現代人の遠く及ばない物が多い。いつもの事ではあるが彼らの逞しさには脱帽だ。

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トラック(チューク)の子供達は逞しい。
マングロープの浅場で漁をしている子供達に出会った。
網をかけ、ぬかるんだ海を泥んこになりながら魚を追いかけては走り回っている。
もちろん裸足だ。捉まえた獲物は誇らしげにハリガネで腰にぶら下げている。
遊びの中で漁を覚え、家族の食糧を調達する。
どの顔も笑顔ではちきれそうだ。

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