2008年03月

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トラック島(チューク)には太平洋戦争時の遺構がたくさん残っている。
戦跡や沈船、多くの桟橋、公共建築物、街の跡など様々だ。
そして、当時建立された石碑や慰霊碑などもその1つである。
中には風化して判読不明のものもある。
そんな慰霊碑や碑文を、今のうちに拓本にとり後世に残そうと立ち上がった人がいる。
静岡の永島徳蔵氏(66歳)、人呼んで『仏の徳さん』その人である。
彼はこの10年来毎年のようにチュークに通っている年配のダイビング仲間の1人でもある。
去年の11月、ダイビングの合間に1日休みを取り、日本時代の中心地だった夏島を訪れた。
その折に夏島の艦隊司令部にある石碑を目にしたが、碑文の文字が旧仮名遣で解読不可能だった。
この石碑は、当時の第四艦隊司令長官・武田盛治中将の名で建立されたものだ。
これまでにご年配の方達も沢山ご案内したが、誰一人として解読できる人はいなかった。
トラック島に人一倍愛着を感じている徳蔵さんは、拓本を思いついた。
そうして準備万端、満を持しての今回の訪島となった訳である。
昔とった杵柄で、手際よく作業を進めていく徳さん。
この日、夏島・春島の両島で5枚の拓本をとる事に成功した。
お供をした私も、お陰でそのノウハウを完全に頭に叩き込む事が出来た。
今後は、徳さんの意向を継いで、残った石碑の拓本つくりは私が引き継ぐ事になった。
これからまた、余暇を見ながら戦争の記憶を拓本に残して行きたいと思っている。

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高齢者のみを乗せて太平洋域をクルーズするアメリカの客船が入港した。
1月12日の入港に続き早くも今年2回目のトラック入港である。
この客船がトラックによく来るのには訳がある。
日本時代の遺構や沈船などが目的で、沈船ダイビング、沈船シュノーケルをはじめ、日本時代の街の跡や戦跡を訪ねて、かつての日本時代の中心であった夏島や竹島島内の散策を行なう。
お客さんの殆どが高齢者で、中には歩く事もままならない人たちもかなり居る。
通常、客船が入港すると、モエン島(春島)の港に接岸するか、もしくはブルーラグンリゾートホテルの沖合いに停泊して、モエン島をメーンに観光する。
しかし、このクルーズ船は、かつての日本時代の中心だったトラック軍港に停泊し、夏島や竹島、沈船などを観光する。外国人にしてはちょっと変ったツアーである。
今日も何人かがボートで本船に運び込まれるアクシデントがあったが、これはいつもの事、足はよろよろでも口だけは達者で、元気なものである。
こうして、早朝から始まった日本時代の旅は今回も盛況のうちに無事終了した。

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今日から3日間、日本の医療団体による現地人対象の健康診断が始まった。
広島からの医師や看護婦さんなどのボランティア団体で、毎年この時期、10名程の方達が現地人達の健康診断と健康管理にやってくる。日本人のお医者さんが診てくれるとあって、早くも今日は100人近い申し込みがあり、日本人スタッフはお昼休み返上で初日の検診をこなしていった。
こんなチャンスはめったに無く、私も妻のかほると共に現地人達の列に加わった。
時々、通訳のお手伝いもしながら久し振りに日本の健康診断を受け、ホッと一安心というところである。
身長・体重・体測、血圧から始まり、目の検査、尿検査、血液検査、心電図などで健康チェックをしてもらう。
体重計に上がる現地人女性はお相撲さんクラスがゴロゴロで、『195パウンド~』『265パウンド~』と
読み上げる体重の数値を聞いているとまるでプロレスの場内アナウンスばりだ。
いつもはノンビリ・ダラダラとした検査しか受けた事の無い彼らは、日本式のスムースな健康診断の流れに多少は戸惑いながらも嬉しそうにチェックを受けていた。

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マブチスクールこと、ザビエル高校の本校舎修復事業の実測調査がこの程実施された。
戦時中に馬渕建設によって建築された元・日本軍通信隊基地の建物である。
馬渕建設創業100周年記念事業の奉仕活動の一環で、この建物の修復を行う事になった。
修復作業は、学校が夏休みとなる6月~8月の間に予定されている。
昨年11月の訪問から3ヶ月目の今日、そのための現地実測調査がこの度行なわれた。
強固な建造物とはいえ、アメリカ軍の猛爆に晒された建物は、方々に傷をおったまま、この60年間を耐え生き抜いてきた。これまで幾多の優れた人材を世に輩出してきたこの建物も、もはや歳月には耐え難く随所に支障をきたし始めている。
馬渕建設の社史によると、当時、軍部から破壊命令の出たこの建物を、『協力してくれた島民の将来を考え、そのままにしておくように』と言う社命のもとに残された建物である。
先人達が尊い命と引き換えに、この地に残した貴重な財産が、今また馬渕マン達によって命を吹き込まれる事となった。
校舎の片隅には、作業の安全を祈って、日本語クラスの生徒達によって作られた千羽鶴が飾られている。

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この一週間電話が不通になっていた為、インターネットが思うように出来なかった。
メールを空けるには、誰かの電話回線を借りるしかないのだが、そうそう他人の家の電話線を拝借する訳にもいかず、結局は7キロ離れた電話局まで行って電話回線を借り事になる。
夜になるとその都度走って行く。それでも、電話局の電話回線をいつまでも占領するわけにもいかず、せいぜいメールのチェックをするだけに終わってしまう。やきもきした毎日だったが、今日やっと電話が復旧した。原因は、家の近くの電線の火災で電話線が焼けた為だ。
今日からやっと家でゆっくりとインターネットが出来る。
こんな所に住んでいると、このようなトラブルはしょっちゅうで、特に珍しい事でもない。
ちょっとした事で電話が不通になったりする。
そして、メール1通入れるにも、往復15キロの道のりを車を飛ばして行く事になるのである。
ここでは、全ての事柄が、普通・正常であることの方がはるかに珍しい。
正常である今この時をとても幸せに思うと共に、安心感にひたっている。

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