2007年07月

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しばらく放置していた軒下菜園を久し振りに耕した。
夏場の繁忙期になると手が付けれなくなるのと、たまたま友人から野菜の種を頂いたので、発奮してシャベルと鍬を握った。ついでにこれもまた、以前より考えていた南の島の花を植える事にした。
プルメリアと色合いの違うハイビスカスの苗木を4本。
山から腐葉土の混じった土を取ってきて、これまたそのために購入した鉢に植えたところだ。
家の周りを、南の島の花々で囲ってみたい、といつも思っていた。
これを手始めに少しずつ増やして行きたいと思っている。
今日から毎日植木に水をやる楽しみも増えた。
明日から始まる忙しい日々を、きっとこの花の苗木たちが元気付けてくれることだろう。

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最近は、チューク諸島でも携帯電話やデジカメがかなり普及してきた。
何かのパーティーや催し事があると、みんながデジカメを構えている風景に出くわす。
携帯に至ってはもう殆どの若者が手にしていて、あらゆるところで携帯を耳に当てている。
そんな風潮を受けてか、遂にチュークにもデジタルプリントショップがオープンした。
オープン初日の店には、早くもお客様が頻繁に出入りしている。
写真屋さんすらなかったチュークにいきなりデジタルプリントショップの登場だ。
ところがこのプリントショップの中に、なんとボートの船外機が並べられている。
プリントショップと船外機ではどう考えても結びつかないが、いかにも南の島のお店と言うところではある。携帯と言い、デジカメと言い、これまで殆ど伝達手段の無かったチュークの社会に忽然と現れた文明の利器だ。コンピューターに関しては役所やビジネスの社会を除き、今のところイマイチの感があるが、
これもまたそのうちに急激に増えてゆくに違いない。
のんびりとした南の島の社会にも、デジタル化の波が少しずつ押し寄せ始めている。

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 日本の魚に比べて、南の島の魚はまずい、という話をよく耳にする事がある。 
四季折々の旬があり、季節や、ワビ・サビ、と言ったものを大切にする日本人の食文化が言わせる言葉だろう。ところがどっこい、この南の島々にも、日本の魚に負けないくらいに美味しい魚がたくさん泳いでいる。料理上手な日本人が住んでいれば、きっとおいしい魚のレシピがいっぱい出来ているに違いない。

まずはその鮮度である。
江戸っ子が宵越しの金を持たないのなら、チュークの人達は、宵越しの魚は食べない。
その日に取れた魚はその日のうちに食べてしまう。冷凍なんぞは以ての外である。
日本で最も多く食べられている魚の1つにカツオ・マグロ、がある。
遠洋魚の代表各である。日本では遠洋でもここチュークはその漁場の真っ只中にある。
かつての日本時代、当時日本で消費される鰹節の、なんと60%は、チューク・パラオなどのミクロネシアで生産された。朝釣れたカツオはその日のうちに捌かれ、釜茹でをし、鰹節となるべくすぐに天日干にされた。当時は、南洋で生産される鰹節は南洋節と呼ばれ最高級品として、日本中で重宝されたのである。
獲れ立てのカツオの刺身は、マグロともおぼしきもので、これがカツオか?と思うほどに美味い。いわんやマグロをや、である。チュークにいらっしゃるお客様に、獲り立てのマグロをよくご馳走する事があるが、その美味しさには一様に脱帽する。新鮮なマグロの頭をそっくりそのまま焼き上げた兜焼に至っては、涙が出るほどに美味しい。このようにチュークで獲れる魚は、いずれの魚も鮮度抜群で、それ故に美味しさが一段と引き立つのである。
料理の腕では無い。鮮度のなせる業である。

チュークの人達の魚の食べ方はとても単純で、日本人のように手の込んだ料理は殆ど無い。生で食べるか、椰子ミルクで煮るか、焼くかである。
日本人も刺身と称して生で食べるが、ここの人たちの生食は、日本人の上品な刺身には程遠い。魚をそのまま、姿のままか、もしくは大きくぶつ切りにして生で食べる。
焼くのも、上品な塩焼きではない。ウロコもはらわたもそのままに、焚き火の上にポンと乗せて、あたかも日本のタタキ風に、両面をちょっと焦がして、中は生焼けの状態で召し上がる。
日本人にはちょっとまねの出来ない食べ方である。そんな環境で食べる魚達であっても、美味しい魚は沢山ある。

スジアラと呼ばれるハタの仲間は、日本では高級魚である。
刺身はもちろん、天麩羅にフライにから揚げ、アライや酢味噌ヌタなどにしても美味しいが、特に鍋がいい。熱帯の島で囲む鍋だが、このハタ鍋は格別に旨い。野菜や食材が極端に少ないチュークでは、鍋と言っても、入れる物はこのハタと白菜のみである。その白菜すらもいい物はなかなか手に入らない。たまにきれいな白菜が入ったときには、新鮮なハタを求めて、ハタ鍋を作る。このハタ鍋には、まともな日本食に飢えてる私や家内だけでなく、子供達までが競って箸を出す。友人が日本から来る時は、ハタ鍋をするために白菜と味噌をこっそり担いでやってくる程である。

ヒラアジの仲間には、大きなローニンアジを始め、ギンガメアジ、カスミアジ、カッポレ、シマアジ、南洋カイワリ、などといった沢山の種類がある。この中でも特筆ものが、カスミアジと南洋カイワリだ。カッポレやシマアジも美味しいが、総合点では、このお二人さんには叶わない。
まず、南洋カイワリ。
頭の小さい、この平べったい魚は、エサで釣るのは難しく、従ってローカル市場にはなかなか出回らない。ところがルアーにはよく反応するので、日本人の釣り客や、私が自分で釣りに行く時には、必ずゲットする魚である。頭と腹が小さくて実の部分が大きく、しかも厚みが余り無いので塩焼きやから揚げには最適である。しかも味は天下一品ときている。3枚におろし、ちょと塩をして、酢で〆ると、酒の肴にも絶品だ。

次に、カスミアジ。
興奮すると、澄み切った青い霞み模様を体いっぱいに際立たせるこの魚は、日本から来る釣り人達にとっても人気の魚の1つである。そして食材としても南の島の魚の中でもトップクラスにランクされる。ヒラアジの仲間では文句なしに最高の食材だろう。大きいものは、10キロ近くにもなる。きれいな魚で形もよく、捌く方も気持よく包丁が入る魚である。3枚におろした後のアラは、カマや頭を取り分け、背骨はスープ用に切り分ける。捨てるところは何も無い。
寿司・刺身、煮魚、フライ、テンプラ、塩焼き、と何でも来いだ。そして、このカスミアジも、南洋カイワリも、最後の仕上げにそろって美味しい潮汁を提供してくれる。

我が家で好んで食べる魚に、『アオチビキ』がある。
通称・パシィフィックサーモンと呼ばれているこの魚は大きなものは10キロほどにもなり、フィッシングの対象魚としても人気がある。この魚は、どんな料理にも向いており、真アジ同様、白身魚と赤身魚の特色を備えた重宝魚で、その味は天下一品である。塩焼きはもちろん、寿司・刺身、テンプラ、フライ、から揚げ、煮魚、とどれをとってもトップクラスにランクされる。
そしてもう一つ、アオチビキの潮汁は正に絶品で、しかもスープが冷めてからでも臭みが無く、美味さが損なわれる事がない。このアオチビキモもまた、カスミアジ同様、エラとはらわた以外には、捨てるところは全く無い。釣りに出かけてアオチビキが釣れると、思わず顔がほころぶ。
そして、頭の中は、早くも夕食のメニューの事でいっぱいとなるのである。

友人達を家に迎えるとき、ローカルフードの他に彼らをもてなすのは、いつも生きのいいこれらの魚たちである。料理好きで、お祭り好きな私にとっては、美味しい、そして鮮度抜群の南の島の魚たちは、何物にも変えがたい食材である。毎年チュークにやって来る、とある友人のグループの為に、鮮度のいいアオチビキを用意する事は恒例となってしまった。

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南の島独特の蟹にヤシガニがいる。
ヤドカリのオバケのような形をしたこの蟹は、まさしくヤドカリの仲間で、小さいときには貝殻に入りやがて大きくなると、殻から抜け出し、日中は穴の中に潜んで、夜になると這い出しエサをあさる。
主に椰子を好んで食べるが、腐食肉や、小動物まで、何でも食べる。写真のヤシガニは丁度ネズミを食べていたところを捉まえたものだ。夜行性の生物で、南の島の大きな無人島や、人里離れた山の中で生息している。寿命は20年もあるといわれている。
ヤシガニはミクロネシアの島々でももう貴重なものになり始めている。
食糧としてもとても貴重なもので、また、グアムなどの観光客に出すために乱獲がたたったためだ。
それでもここチュークでは、離島に行けばまだまだたくさんのヤシガニを見る事ができる。
チュークの自然が守られている証でもある。

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チューク諸島周辺の海域では、竜巻を見かける事が良くある。
竜巻は熱帯低気圧や嵐の右手前方で発生しやすいと言われている。
チューク諸島の海は正に熱帯低気圧(台風の卵)の供給地で、海に出ているとよくこの熱帯低気圧の小さなものによく出くわす。洋上はるか暗雲が垂れ込め、見る間に直径100キロ以上の大きな嵐の雲に覆われてしまう。
先週のとある日、環礁の北側で釣りをしている時、この熱帯低気圧に襲われた。
東側から沸きあがってくる嵐の雲はあっという間に環礁全体を覆い、我々の行く手をさえぎってしまった。そしてその嵐の雲の右手前方には大きな竜巻が渦巻き始めている。やがて見る見るうちに渦の先端は洋上に達し、海面からしぶきを巻き上げ始めた。竜巻の発生から消滅までおよそ20分位の出来事であった。
竜巻の消滅を合図に、我々も腰を上げた。躊躇していると、我々のいる環礁北部も嵐に巻き込まれてしまう。暗黒の嵐の雲に向ってボートを走らせる。めざすモエン島はあの嵐の真っ只中にある。
10分も走ると周りは全く何も見えなくなってしまった。
ボートオペレーターを怒鳴り散らしながらナビゲートする。
そして、1時間後、凍える体でやっと無事港に到着した。

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ブルーラグーンリゾートホテルは、数少ないチュークのホテルの中では、唯一の滞在型リゾートホテルである。ただし、恵まれた自然を除いてはさしたる特色も無い簡素なホテルだ。
主島であるモエン島の南端に位置し、3方を海に囲まれた椰子林の素敵なホテルである。
見た目には美しい椰子林も、その状態を維持するためには普段からの手入れが必要となる。
今日も朝のすがすがしいキャンパス内で椰子の木に登っている姿を見つけた。
高い椰子の木は5階建てのビルほどの高さがある。
そんな高さもものともせずに彼らはヒョイヒョイと椰子の木に登り、枝の手入れをしている。
のどが渇けば、落としたばかりの椰子の実を割って、グイグイとあおる。
朝一番の取立ての椰子の味はまた格別だ。
そして、この朝もぎの椰子のジュースは、ホテルのレストランに運ばれ、お客様のノドを潤す。

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60数年前の太平洋戦争。
トラック島で何度も生死の境を彷徨い、奇跡的に日本に生還したある陸軍の若い兵士がいた。
当時、現地の若者達と助け合い、食糧を分け合って、厳しい戦争を生き抜いた。
28年前にトラック島を訪れ、その現地の友人達と再会し、今度は生きてる喜びを分かち合った。
トラックを訪問した数年後、その兵士は他界した。
そして、その兵士が残した写真を形見に携えて、今度はその息子夫婦がトラック島を訪ねた。
写真には父が生死を共にした現地の友人達が一緒に写っていた。
『冬島に行きたいのですが・・・。』空港でこのご夫婦をお迎えした時、そう言われた。
父が戦争中、冬島に居たのだと言う。
28年前、兵士が撮った写真には初老の現地人が写っていた。
トラック島の常識で考えて、とても生きている年代ではなかった。
トラックに着いた2日後、ボートで冬島に向った。
その現地人がいると思われる村の桟橋に上陸し、近くの民家で写真の彼らを待った。
写真には大人5名と子供が2人写っている。28年前だ。
待っている民家の人達が、この人は死んだ、この人はサイパン行ってしまった、この人は今、他の島にいる。などと話し合っている。父と生死を共にした人はもうこの世には居ないのかもしれない。
そんな気持ちが支配し始めた頃、いきなり1人の老人が現れた。
『あなたは、Iさんを知っているのか』と言う問いに、『知っています』と日本語で答えてきた。
ご夫婦の顔に安堵の表情と笑顔が広がる。双方の間で暫く日本語の会話が弾む。
『私は、Iさんと一緒に仕事をしてました。』
『戦争が終わって、Iさんが冬島を離れて行った時のことも覚えています。』
79歳のとても元気な老人であった。
日本人に付けてもらったと言う彼の名は、『サムライ』と言う。

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高松の宮殿下お手植えの木『玉名の木』の巨木に登って『YAP』の人文字を作ってポーズを決めているのは、海外青年協力隊・ヤップ隊の面々。夏休みを利用して、ここチュークにやってきた。
同じミクロネシア連邦内にあるチュークの理解とチューク隊員との親睦を図っての訪問である。
そのガイド役をかって、彼らの切望するチュークの戦跡と無人島にご案内した。
かつて、日本海軍の一大基地として栄華を極めたトラック諸島・デュブロン島(夏島)。
そんな日本時代の戦跡や遺構と、南の島の伝統的な生活振りとを楽しみながら、のんびりと見て歩く。
そして、仕上げは極上の無人島遊び。
無人島の木陰の下での楽しいランチタイム、スノーケリング、そしてお昼寝。
ヤップ島ではなかなか体験できない無人島天国タイムを全員が満喫した。
いつもは、日本国の看板を背負って僻地で頑張っている彼らも、今日ばかりは親友達との楽しいひと時を過していた。チューク諸島への理解と親睦はより一層深まったに違いない。。。。

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