2006年08月

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先週一週間、1人の日本人女性が現地人の家にホームステイをした。
ヒサコさん、23歳。とても元気で明るい女性だ。
ホームステイが終わって、空港に送りに行ったときに見た彼女の笑顔は、一週間前に空港にお迎えに行った時に見た、ちょっと緊張した顔とは別人のように、生き生きと、そして晴れ晴れとしていた。
『とても楽しかった!』と私達夫婦に笑顔で語ってくれた。
ヒサコさんが、チュークにホームステイをする、と決ってから、沢山の問い合わせを頂いた。
家の事、家族の事、電気の事、ストアーの事、水の事、食事の事、そして、虫の事、などなど。。。
しかし、心配は杞憂に終わった。
テレビもラジオも、新聞も無い。いつ点くとも知れない電気。食べなれない現地食。
始めて体験する夜の水浴び。冷たい水を頭からかぶるにはとても勇気がいる。
現地の生活に戸惑うヒサコさんを家族全員で励まし、手を差し伸べてくれる。
そこにはいつも楽しい笑顔があった。貧しいながらも、日本では体験できない心のこもったもてなしと現地での生活ぶりに心から感動を覚えた。
『きっとまた、必ずチュークに帰ってくる!』
お世話になった家族の一人一人に、約束するヒサコさん。
自分の心にそう誓って、笑顔でチュークをあとにした。

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8月16日の朝日新聞夕刊、『戦争の記憶』という特集記事にチュークのザビエルハイスクールが紹介された。終戦記念日を巡る特集記事の一こまである。かつて、旧日本海軍の大きな基地があったこのトラック島には、数多くの戦跡や遺構が残されており、そのなかには、60年経った今も現地社会に貢献しながら利用されている戦跡や遺構が幾つかある。モエン島の東端にあるザビエルハイスクールの建物もその1つである。海軍の通信隊基地として建築されたこの建物は、鉄筋2階のとても大きな建物で、アメリカ軍の空襲で直爆弾も受けたにも関わらず、ビクともしなかった。当時、日本時代の遺構は構わず取り壊していった米軍にとってもこの建物だけは手に負えず、モエン島の東の岡の上にそのまま残された。
終戦直後は進駐して来た米軍の宿舎としても利用されたが、間もなくカトリック教会の手で、高校として
の道を歩む事となり、現在に至っている。
この建物は、馬渕建設によって建てられた為に、この場所をチュークの人たちは今でも『マブチ』と呼び、この高校を、『マブチスクール』と呼んでいる。
日本の技術者20名と数百人もの現地人の手によって、2年の歳月をかけて建設された。
建設機器は全く無く、全てが現地人の労力でまかなわれた。
当時、この建物の建設に従事していた現地老人の話によると、工期中の2年間、全く報酬は与えられず、食べ物さえも与えられなかったと言う。戦争の逼迫した中で建てられたとは言え、その処遇は現地の人たちにとっては耐え難い苦労であったと思われる。
そんな、彼らの血のにじむような努力が、ミクロネシア随一の高校として今、花開いている。
老人の家は、ザビエル高校に通じる海岸道路の上の方にある。
朝夕、生徒達が学校に通う姿を見て、きっと当時の苦労を思い出しているにちがいない。
ありがとう! チュークの老人達・・・。

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バナナ。ヤシの木と共に世界中の熱帯域に分布し、世界中で最も多く生産され、最も多く食べられているという植物であり、果物である。このチューク地方も例外ではなく、島のいたるところに栽培されている。パンの実、タロイモ、と並んで最も重要な植物の1つである。大きく分けると、フルーツとして生で食べるものと、調理して食べる物とがある。それぞれに沢山の種類があり、時にはおやつに、あるいは副食に、そして主食にと、現地人にとっては無くてはならないとても貴重な食べ物である。
調理用バナナはクッキングバナナと呼ばれ、蒸したり、焼いたり、またはすり下ろしてダンゴにしたり、タロイモやタピオカ等と混ぜて料理したりする。果物として食べるものは、数百本もの実をつけた大きな枝を軒下につるし、熟れたものから順に取り、おやつに主食にと、みんなで食べている。
熟れたバナナと言えば、すぐに黄色のバナナを思い浮かべるが、実は、紫のバナナ、緑のバナナ等、色々のバナナがある。形も様々で、ビール瓶ほどの大きなバナナ(キングバナナ)があれば、ごく小さなバナナ(モンキーバナナ)があり、指のように細長いバナナ(レディースフィンガー)や、ちょっと触っただけでも房から零れ落ちるほどに柔らかな甘く香り高いバナナ(香水バナナ)等がある。
チューク地方で最も好まれているバナナはフィジーバナナと呼ばれているフルーツバナナで、皮が薄く、香りもよく、酸味と甘みが程よくミックスしたの絶妙の味である。形も小振りで、絶好のおやつとして
子供から大人まで好んで食べられている。南の島のバナナは、我々外国人にとっても、貴重な果物であり
食べ物である。

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『みんなは、雲に乗ってどこに行きたいか~!』
そんな先生の楽しい質問に、『ボクは雲に乗ってトラック島にいきた~~~い!』と答えた7歳の少年がいる。映画・『男達の大和』を見て、その内容とスケールにド肝を抜かれ、一気に『戦艦大和』のファンになった。広島にも足を延し、日増しにヤマトへの思いは大きなものになってゆく。
日本で出会えるヤマトには限りがある。そう思う少年の心の中には、いつしかトラック島への夢が広がっていった。『戦艦大和が浮かんでいたトラック島に行ってみたい!』
お父さんを説き伏せ、少年の『ヤマト』への旅が始まった。

かつて連合艦隊の基地であったトラック島(チューク)には、世界一の威容を誇る戦艦大和・戦艦武蔵を始め、航空母艦、重巡洋艦、駆逐艦、潜水艦などの重要艦船が一同に会していた。

艦隊錨地に向かい、『戦艦大和』の停泊地にボートを停める。春島の島影が、当時の大和の写真そのままに目の前に広がっている。かつて、ヤマトのもやいのロープをブイに繋ぎ、艦の周りに防護網を張り巡らした作業船に、ヤマトへの想いを馳せる。
『連合艦隊司令長官・山本五十六』の足跡を訪ねるにつけ、その思いはいやが上にも高まってゆく。
今、自分は、あの『戦艦大和』が浮かんでいたトラック島にいる・・・・。
『山本五十六』のいた司令部にいる・・・・。
五十六の歩いた夏島を歩いている・・・・。

最終日、七曜諸島を巡る旅に出た。『人間魚雷・回天の発射基地』を見学し、日本時代に掘削したマングロープの運河を巡る。神秘的なマングロープの迷路に子供らしい笑顔と歓声がこだまする。
最後には、木曜島の集落を訪ね、岩山に大きくあいた天然のトンネルを見学する。ここもまた、旧日本軍の守備隊に利用された所である。
村の子供達や女達が少年と友達になりたくて、彼の動きにあわせゾロゾロとついてくる。
ボートが桟橋を離れる。少年とのお別れを惜しむ子供達が大きな声で少年の名前を呼び、手を振り続ける。中には桟橋から飛び込んで別れを惜しむものもいる。

ヤマトがいた南の島に住む同じ世代の少年少女。
少年は、何度も何度も振り返り、桟橋の子供達に手を振り続けていた。

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先週末、日本の某大臣がチューク州を訪れた。
パラオ(ベラウ)共和国、マーシャル諸島共和国、ミクロネシア連邦のポナペ(ポーンペイ)などを歴訪され、最後に、このチューク州にも立ち寄られた。政府、民間共に盛大なおもてなしで、大臣の当地ご訪問に対し、とても心のこもったお迎えであった。
大臣はお若い頃から、海軍の一大基地であったこのトラック島に大変ご興味をお持ちの方のようで、今回のご訪問をとてもお喜びになられたご様子でした。モエン島(春島)、や艦隊錨地などでのご慰霊をなさり、日本統治時代の中心であったデュブロン島(夏島)もご訪問されました。
ミクロネシア各国の公式訪問のあとの、最後の訪問地ということもあり、最終日の現地日系人主催による昼食会では、終始和やかな雰囲気の中でとても寛いでいらっしゃいました。
そんな折、我々日本人のテーブルにもわざわざ足を運んで下さり、大変貴重なお話しをお伺いする事が出来ました。この度の大臣のご訪問は、チュークの人達にとっては大変喜ばしい事であり、政界・民間にかかわらず、広くチューク・日本の交流に大きな影響を及ぼすものと確信しました。

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トラック環礁内に沈んでいる数多い日本の沈船の中に、1隻の潜水艦がある。
総トン数1400トン、全長101mの当時としては最大級の潜水艦、『伊号169・潜水艦』がそれである。真珠湾攻撃で奇跡の生還を果たし、幾多の戦歴を経てこのトラック礁湖にたどり着いた。艦隊錨地に錨をおろし、つかの間の平穏にひたっていた正にその矢先、突然の空襲警報のもと、ハッチを開けたまま急速潜航をしてしまい、乗員・工員89名を乗せたまま不運の最期を遂げてしまったのである。

そんな中に、17歳で志願兵として乗り込み、不運にも艦と運命を共にした若干19歳の若者がいた。
そして今、若い兵士が眠る艦隊錨地に、一艘のボートが到着した。兵士の妹と姪達だ。
エンジンを切って漂うボート。暖かい海水のその中には兄の御霊(みたま)がある。焼香し、郷土の食べ物を捧げる。60年の歳月が一瞬にして消え去り、若かりし頃の兄の姿が水面に映る。
漂うボートの上で、兄の思い出に浸る。
兄が乗って作業したであろう潜水艦母船の沈没地、兄が幾度となく足を運んだであろう街の跡、
何度も何度も乗り降りしたであろう桟橋の数々。ボートを走らせ、若き通信兵だった兄の軌跡を辿る。
そして今も兄はこの海にある。

ーーー 写真・艦隊錨地より夏島を望む ---

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先週一週間、釣り好きの一人の男性がやって来た。
2月に小手調べでやってきて、その釣果にいたくご満足で、今回は早くも2回目の釣行だ。
一人で、オローラ島に泊まりこみ、連日のフィッシング。
最近のお客様は、ルアーフィッシングがメーンだが、この男性は近頃では珍しくなったエサ釣が好きで、昔ながらのエサ仕掛けで、次々と高級魚を釣り上げてゆく。
これも釣キチの私と、一週間の釣バトルが始まった。
5日間の釣行で、釣りも釣ったり、100匹以上の高級魚を釣り上げた。
この御仁、釣も好きだが魚介類は大好物とあって、毎日の夕食には、その日に釣ってきた魚を料理して
魚三昧。オローラ島で毎夜・毎夜の魚料理に舌鼓を打っていた。
如何に魚好きとは言えど食べきれるものではなく、当然、現地スタッフや、私達も連日美味しい魚料理を
頂く事と相成った。新鮮な魚は旨い!!

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今夜は満月のはずが、空にはお月さんどころか、星1つも見えない。
上弦の月あたりから、今日までの一週間、空には太陽も、月も、星空さえない暗黒の世界だった。
まるで別世界に住んでいるような錯覚さえ覚える。
お客様も『熱帯の島がこんなに涼しいとは・・・??』と首をかしげている。
現地に住む我々にとっては、連日肌寒い毎日が続いている。
チューク諸島の北側の海域で、次々に熱帯低気圧が発生し、海は連日の大荒れで、暴風雨が吹き荒れた。今、日本方面を襲っている3個の台風がそうだ。
せっかくいらしたお客様にとっては、とても残念な事であった。
美しい南国の海を見て頂きたいと願っている我々にとっても、恨めしいトロピカルストーンではある。
そんな中で唯一の慰めは、緑の島と島人達の生活を潤す大量の雨だけだったかも知れない。

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