2006年06月

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昨夜は一番中雨と曇りで、せっかくの満月を一度も顔を拝む事なく終わってしまった。
おかげで今天空に輝く南十字星もさそり座も全く見ることが出来なかった。
今年もこれで早くも6回目の満月を迎えた事になる。
毎度の事ながら、満月が近づくといつも気持ちがワクワクしてくる。
日毎に大きく、明るくなってゆく月を見ていると滅入った気持ちまでが爽やかになってゆくのを感じる。
チュークの人たちを見ていても、満月が近づくにつれて、夜遊びをする若者達の数も増えて、楽しそうにはしゃぎまわっているのがわかる。満月は、夜空を照らすだけでなく、島人達の心にも大きな明かり照らし続けている。

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本日の夕刻、チューク始まって依頼、最大と思われる葬儀が多くの人たちの見守る中で厳かに行なわれた。
Rechuukと言う、チューク出身のバンドがある。
ミクロネシアを中心にハワイやポリネシア、メラネシア方面で、広く活動している。
そのボーカルであり、中心メンバーだったJesse Mori 愛称・Che が5月29日に、その若き生涯を閉じた。
死亡したホノルルで、ハワイ方面のファンや友人・知人とのお別れをし、10日後の6月10日夕刻、故郷・チュークに到着した。チューク空港には彼の亡骸を迎える島の人達で
立錐の余地も無い程であった。お通夜の初日だけでも1000人、この3日間で4000人を越える弔問客が、棺に眠る“Che”に最後の別れを告げた。
彼の亡骸は、海に臨むモリファミリーの墓地に埋葬された。
“Che”よ、故郷の島で安らかに眠れ・・・。

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昨日の朝、隣のデュブロン島からあるお年寄りの女性が訪ねてきた。
『体がおかしくなった。これはあなたのせいだ!』といきなり私に突っかかる。
『去年の8月、あなたが連れてきた日本人達が私の所にやってきて、私に変な事をした。
その3日後から体調を崩して今まで全然治らない。どうしてくれる!』
『私は、警察にあなたを訴える!』とまで言っている。
さらに続けて、『8月にある日本人達がやって来て、私の体に変なものをくっ付けた』
『変な機械を私に向けていた』と片言の日本語でまくし立てている。

よく話を聞くとこう言う事だった。
この老婆はとある日系人で、その境遇から時たまアメリカ人や日本人の取材を受けていた。
私も去年の3月に彼女を取材で訪れた事があった。
8月の取材と言うのは、どうも他の日本人グループらしい。
去年の8月にとある日本人達がTV取材で彼女の元を訪れた。
彼らは、インタビューをするために、その老婆の胸に小さなマイクを取り付けた。
そのマイクは細いコードでバッテリーと繋がっており、そのバッテリーは正面からは見えないように彼女の腰に固定した。大きな音声マイクが頭の上にぶら下がっている。そうした物々しい状態でインタビューが始まった。カメラが老婆の体をなめ回す。老婆にとっては、『これは一体何なんだ!』と思ったのであろう。こんな事があった後に、たまたま彼女の体調が悪くなった。彼女は、これはあの変な機械のせいだ! と思い込んでしまった。それが冒頭の私へのクレームであった。

どんなに説明しても無駄であった。『あの日本人に会わなければ自分の病気は治らない!』『あの時の日本人の住所と名前を教えろ!』と盛んに私にからんでくる。その時は、朝の手配と仕事でとても忙しくこれ以上、老婆の相手もしていられない状況だった。途方にくれた妻のカオルは、朝の忙しい時では会ったが、老婆を説得して、何とか病院に連れて行ってあげたのである。

チュークの人たちの間には、今も原始宗教が綿々と受け継がれており、彼らの考える病気とは、その場所の悪いお化けが取り付いた!と解釈する。無人島で病気になれば無人島や海のお化けが取り付き、山で体調を崩せば山のお化けが取り付いた、と考える。そのような時には、その場所のものを調合して薬草をを造り、お化けを体の中から追い出してしまわないと病気は治らない!と思っている。
件(くだん)の老婆は、これは、『あの日本人に会って、然るべき処置をしなければ自分の病気は治らない!』と思ったようだ。
彼らの世界に棲みつくお化け達は、彼らの土着信仰はによって癒す事はたやすく、彼らの心を満たしてくれる。しかし、彼らの信仰世界の中に突然飛び込んできた現代文明のお化け達は彼らのこころをいつまでも蝕んでいく。
その日の夕刻、空港からの帰りにその老婆一行を見かけた。
『病院からの帰りにタクシーをずっと待っている』と言う。帰り道も一緒だったので、観光客用のバスにみんなを乗せてあげた。初めて乗るエアーコン付きのバスの中で、老婆の表情も明るくなった。
これで何とか一件落着であろうか・・・・。

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この一週間は、久し振り自分の時間を堪能できた。家族との時間も充分楽しむ事が出来たし、本もたっぷり読む事が出来た。いつも気にかけてはいたのだが、なかなか読み切るチャンスが無かった。去年日本に帰った時に買っておいた大好きな海洋冒険小説を本棚に積み上げたままで全く目を通していなかったものだ。一日はハイキングに行き汗を流し、また一日は、家族揃ってフィッシングと無人島遊びに出かけた。家族揃って釣りに出るのは1年ぶりである。幸いこの日は天候にも恵まれ、のんびりと釣り糸を垂れる事が出来た。イルカの群れにも出会い、無人島でゆっくりと寛ぐ。釣果も充分で軽く20匹は釣り上げた。子供達も久し振りの釣りを堪能し大満足だ。その夜の食卓には新鮮な魚の料理が並んだ。ゆえあって大好きなビールが飲めなかったのは残念だったが、最近に無く楽しい最高の一日であった。

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ウィティポン山の山容と頂上から見下ろす景観の素晴らしさについては、前回のブログですでに皆さんにお伝えしたばかりだが、実はこの山には、もう一つの隠された顔がある。日本時代、竜王山と呼ばれていたこの山の山頂付近には、第一級の戦跡が残されている。
海抜標高280mのこの山は、東側の海岸から頂上まで、なだらかな斜面が続く溶岩台地になっている。
日本の統治時代には、海岸から頂上まで軍用道路が続きその道路沿いには、日本軍の様々な基地が設けられていた。頂上まで広がる草原の周囲は、断崖絶壁となっており、絶好の砦となっている。
そこには今も尚、数多くの高射砲や大砲が当時の姿そのままに空をにらんでいる。
この山頂には、海軍の高射砲陣地があり、当時250人の兵隊達が2年半に亘って駐屯していたのである。
山頂に向う3つの草原には当時の道路跡が巨大な蛇のように山腹をうねっているのがわかる。
草に隠れた壕があちこちに散在し、注意しないとうっかり壕の中に転落したりする。
岩盤を刳り貫いた弾薬庫や防空壕。
崖の壕から海をにらむ大砲。
今しも火を噴きそうに空をにらむ高射砲の数々。
あたかも取り付け途中と思われる、草原に横たわる真新しい砲身。
草原から顔を出し空をにらむ砲身を見ていると、今にも日本兵が飛び出してきそうな錯覚におそわれる。60年前の激戦の模様を彷彿とさせる光景だ。

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以前から、時間があったら是非登ってみたい山があった。名前をウィティポン山と言う。私達が住んでいるチュークのモエン島にある小さな山で、海抜標高280mの溶岩台地の山塊である。私がチュークにやって来た始めの頃、もう25年程前に一度登ったきりで、その後はずっとご無沙汰していた。今回、5月のツアーからもやっと開放されて、少し時間が取れるようになったので、早速、有志の日本人6名でハイキングとしゃれこむ。予定の時間から1時間遅れて、午前10時、ザビエル高校の丘を出発する。
日本時代は、海岸からこの山の頂上まで軍用道路が開けていたが、今は登山道すら無い。時折、現地人が通る踏み分け路を、先導者が蛮刀(ばんとう)片手に草を切り開きながら進んでゆく。ジャングルを抜けると一気に草原に出る。玄武岩質の溶岩で出来たこの台地状の山は、下から段々に3つの草原から成っている。海からの爽やかな風を受けながら歩くこのコースは涼しくてとても気持ちがいい。
特に頂上近くの草原は、周囲を断崖絶壁に囲まれ、眼下に環礁の絶景を眺めながらの、天空の遊歩道と言ったところである。まるで、遊覧飛行のような景色が次々と眼下に広がってくる。みんなお腹の空いたのも忘れて眼下の絶景に見とれている。ザビエル高校を出発してから4時間半、ベースのザビエル高校に帰ってきた。南の島のハイキングは、つかの間の夢の世界への旅でもあった。
明日は、このウィティポン山のもう一つの顔を紹介しよう。

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