2006年04月

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島の中を歩いていると、沢山の子供達を見かける。
食糧の豊富なこのチューク諸島では子供の数がとても多くて、どの家でも10人以上は居る。私の知っているある家族に至っては、子供の数なんと24人というのがある。いとも簡単に養子をやったり取ったりと言う事もあるが、それでもこの夫婦の間に生まれた子供は17人を数えると言う。このモエン島は小さな島だが、人口はとても多くて、人口密度は1000人近くもある。同じ面積の小笠原の父島では、人口密度が120人位なのと比べると、如何に人口が多いかがわかるだろう。

それは洗濯物の数を見ても一目瞭然だ。色とりどり、様々なサイズの服が、この家は洗濯屋さんではないか? と思うほどにずらずらっと干してある。小さな渓流や共同の井戸の周りでは、いつも若い娘達が洗濯をしている姿を見かける。モエン島の一部では、コインランドリーも少しずつ普及し始めてはいるが、彼らの洗濯はまだまだ、昔ながらのタライと洗濯板を使ってのものが圧倒的に多い。
離島の方に行くとその洗濯板もあまりなくて、棒切れや板切れでバンバンと叩きながら服を洗っている光景を良く見かける。女達が水場に集まり、楽しそうに話をしながら洗濯をしている姿は、遠い日本の昔を思い出して懐かしい。

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太平洋戦争が終わるまでの30年間、チューク地方(トラック諸島)は日本の植民地として栄え、多くの民間人が住み、海軍や陸軍の大きな基地が設けられていた。そんな日本時代の戦跡や遺構が今でも各地に沢山残っている。そしてそんな戦跡や遺構の中には今も現地の人たちの為に有効に使用されているものも少なくない。
ザビエル高校の校舎として利用されているモエン島(春島)通信隊基地の堅個な建物。直爆弾を受けてもビクともしなかった頑丈な建物が今も学校のメーンの施設として使用されている。
現在、デュブロン島(夏島)の役場やグランドとなっている当時の公学校の校舎と運動場。公学校とは、当時現地の子供達が通った日本語学校の事である。そして、デュブロン島各地に残る海軍桟橋の数々。
現在使用されているチューク国際空港も、これまた当時の日本時代の飛行場を整備したものなのである。
当時、モエン島には2つの飛行場があった。もう一つの飛行場は、現在のブルーラグーンリゾートのキャンパスとその周辺である。ここには水上基地と言って、水上飛行機の基地も設けられていた。
その飛行機を上げ下ろししていた水上エプロンが今のホテルの桟橋である。
戦争は、この島の人達に多大な犠牲を強いた。そしてその一方で、戦争から60年経った今も罪滅ぼしをするかのように現地の人たちの為に貢献している遺構がある。

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宝貝の仲間で、『南洋宝貝』という宝貝がある。英名を『ゴールデンカウリー』という。
その名の通り、正に金色に輝く見事な貝である。
フィリピンからミクロネシア、メラネシア、ポリネシアにかけての熱帯の海に生息する。
宝貝の中では非常に希少価値の高い貝で、世界中の貝のコレクターの中でも非常に人気が高い。
シンガポールやマレーシアでは一時は宝石として取り扱われ登録の義務があった時もある。
日本では、三重県の鳥羽水族館にすぐれた貝のコレクションがあるが、その中に1個だけ大事に展示されている。このゴールデンカウリーは、ミクロネシア地方では、古くから酋長の持つべきものとして珍重されてきた。ここチューク地方でも時々現地人が売りに来るがそれでも非常に数は少ない。

ブルーラグーンリゾートがコンチネンタルホテルだった頃、そう、今から10年~15年位前に、ホテルの売店に2個ほど置いてあったが、あっという間にアメリカ人が買っていったのを覚えている。
その時の値段が、何と一個800ドルである。ところが当のアメリカ人は、ニヤリと笑って『アメリカに持っていけば4000ドルにはなるよ!』と言ったものである。それ以来、ホテルの売店で見ることは無い。

そして、我が家には今、それがある。
30年間、南の島で生きてきた証である。

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今、マンゴーが真っ盛りだ。今年は年明けの花が咲いている時期から豊作が予想されていたが、これほどまでに実るだろうとは予期しない事であった。すでに熟れたマンゴーの廻りにも、まるで枝から湧き出るが如くに沢山の青いマンゴーが鈴なりぶら下がっている。
マンゴーの木の下にはどこに行っても、いつも子供から大人までが、手に手に、取ったばかりのマンゴーを美味しそうに食べている。学校の行き帰りにも、カバンの中やポケットに入れたマンゴーをみんなで分け合ってかじっている。
マンゴーの木はとても大きくて、なかなか枝の先端まで登る事は難しい。
そこで、子供達は、石や棒切れをマンゴーめがけて投げつける。
ターゲットは良く熟れたマンゴーだが、そうそう狙い通りに行くものでもなく、廻りのまだ硬いマンゴーをバラバラと落っことしてしまう事になる。でもそんな事にはお構いなしで、まだ若いヤングマンゴーを好んで食べる彼らにとっては、かえって願っても無い展開なのである。
野球のピチャーよろしく、ひたすら石を投げては、落ちてきたマンゴーをポケットにねじ込んでいる。

昔から、野菜を食べる習慣の無い彼らにとって、マンゴーの実るこの季節は、彼らの食生活のバランスを保つ大事な時期でもあるわけだ。4月から8月にかけての、パンの実や果物が多く取れるこの季節を、神が与えた季節、と彼らは言う。彼らの世界にはきっとマンゴーの神様も居るにちがいない。

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チュークには沢山の日本語が残っている。
30年間の日本時代にチュークの社会に溶け込み、チューク語となった日本からの外来語である。
『テンプラ』もまたそんなチューク語のひとつである。
日本料理の『天ぷら』を連想するこの言葉の意味するものは、油で揚げたものは全てこれ『テンプラ』と称する。そんな中で、最もポピュラーな呼び方は、なんと『ドーナツ』の事である。
チューク語で『テンプラ』と言えば通常はこのドーナツを意味する。
このテンプラはチューク地方の最もポピュラーな食べ物の1つで、チューク一番のヒット商品でもある。
味もさることながら、人気の秘密はその値段にある。拳大の大きさのテンプラが1個10セント、10個入りの袋がなんと、1ドルで買えるのである。諸物価が高騰する昨今、
私がチュークに来た30年前からこの値段は変わっていないと言うのも驚きである。
この1袋10個入りのテンプラは、どんなお店にでも必ず山となって置いてある。
小さな市場のお店から、大きなスーパー、パン屋さん、ケーキ屋さん、果てはブルーラグーンリゾートのホテルのフロントにまで置かれて、島の人たちの需要にこたえている。
子供の数が平均10人を超えるチュークの大家族の中では、この安くて美味しいテンプラは無くてはならない大事な食べ物となっている。

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チュークに『ボイス・オブ・トラック』というラジオ局がある。チューク州政府で行なっているチューク地方唯一のラジオ局である。周波数を合わせると、チューク独特の音楽に混じって、アナウンサーがチューク語で盛んにしゃべっているのが聞こえてくる。

モエン島以外の島々には電気がなく、従って電話はまったく無い。そこでこのラジオ局が、島人達の恰好の連絡手段となっている訳だ。政府からの通達事項に混じって、個人のメッセージが次々と流れてくる。冠婚葬祭のお知らせ、店の大売出し、市場からの魚の入荷、飛行機の遅延、個人の忘れ物や落し物、運動会の実況中継、個人から個人への依頼事項など、何でも来い! である。要するに、一方通行の電話と思ってもらえば良い。

このようなメッセージのアナウンスの事を、チューク語で『ハッピョウ』と言う。これは日本語の『発表』から来ている。そのハッピョウを聞いていると、島人達の生活振りが判ってとても面白い。
今日本では、個人情報の開示や保護が問題となっているが、ここチュークではそんなことは全くお構い無しである。人の秘密もプライバシーもあったものではない。自分向けのメッセージを聴いていなかった本人の為に他の人がわざわざ教えてもくれる。全てを公開して、全てを判り合って始めて彼らの運命共同体の社会生活が成り立つのである。ラジオハッピョウは全ての個人情報を共有する彼らのシンボルでもある。

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モエン島の中心街・港の周辺には、、丸い大きなトタン屋根の古い建物が幾つか残っている。
これは終戦直後にアメリカ軍によって建てられたもので、当時は『カマボコ兵舎』と呼ばれていた物だ。丸い屋根の形状が日本の蒲鉾(かまぼこ)に似ているからである。
日本時代のチュークには、海軍や陸軍の大きな基地があり、沢山の兵隊達が駐屯していた。
終戦になりアメリカ軍の統制下、捕虜となった日本兵の一部はここモエン島(春島)に集められ、日本に送還された。その時の日本兵を収容したのが、このカマボコ兵舎だったのである。
このカマボコ兵舎が現在も尚、10棟程残っており、政府や民間の倉庫として利用されている。

港の近くに『T・T・C』(トラック・トレーディング・コーポレーション)という会社がある。
貿易と小売業を行なうチューク地方最大の会社だ。終戦直後、現地日系人によって起業され、トラック島唯一の株式会社として発足した。当時まだ現地人にはなじみの無かった『株』を売買したところから、この会社の名前を『KABU』と呼ぶようになった。この名前は今も現地人の間でこのストアーの名前として使われている。T T C のスタートは、このカマボコ兵舎を利用したものであった。以前私がチュークに来ていた頃も、裸電球をつけた薄暗いこのカマボコ兵舎のストアーでよく買い物をしたものである。
当時、日本兵を収容したカマボコ兵舎は、終戦から60年経った今も尚、港を見つめて働き続けている。

チュークに移住してから早くも27年が過ぎた。丁度人生の半分をこの南の島で過ごした事になる。
家庭を持ってからも殆どが南の島での生活だった。妻と、3人の息子達が私の家族だ。

長男は邦雄、25歳。ミクロネシア国籍を持ち、現在、日本の大学に在籍している。古都・京都で、遊びに・アルバイトに・勉学にと、忙しい日々を送っているようだ。今後、何処でどう生きて行くのか、親父である私にも全く想像がつかない。広い地球、どこかで自由に生きて行ってくれればいいと思っている。子供と言えども所詮は一人の人間で全く別個の人格・人生である。己が心に悔いることなく、思うが侭の人生を送って欲しいと願っている。

次男は友(ゆう)、16歳。現在、現地のザビエルハイスクールという高校に在学している。チューク諸島の中心・モエン島の最東端の丘の上にその高校はある。厳しい受験競争をクリアして、ミクロネシア全域から生徒達が集まってくるこの高校は、カトリック系の厳しい学校としてミクロネシア全土にその存在を知られている。男子は全寮制で、生徒達は厳しい校則の基に厳格、かつ、楽しい学校生活を送っている。日本人はうちの次男坊ただ一人だけである。

もう一人の息子・3男坊が11歳で、家の近くの、これもまたキリスト教系の学校に通っている。ここでも日本人の子供は、うちの坊主ただ一人だけだ。チューク諸島には日本人は10人くらいしかいなくて、そのうちの約半分は我が家のメンバーである。純粋の日本人の子供と言えば、うちの2人だけしかいない。そんな環境の中で、息子達は自分の胸に様々な問題やストレスをかかえながら大変よく頑張っている。この11歳の坊主の名前は、海(ひろみ)、広い海をイメージして付けた名前である。彼が生まれた時、ホテルのビーチで友人と夜通し飲みながら考えた名前である。 今回は、11歳のヒロミを通じてチュークの中を覗いてみよう。

チューク諸島の人達は100%がキリスト教(クリスチャン)である。そこには、カトリック、プロテスタント、など様々な宗派が入り混じっている。そしてその宗派がそれぞれに学校を経営している。息子のヒロミが通う学校もそんなキリスト教系の小さな学校の1つである。
1学年1クラスで、1クラスの人数は10人~20人とマチマチである。ミッションスクールと言えば聞こえはいいが、所詮は僻地の小さな学校で、我々日本人の常識からすると沢山の問題が目に付くのは致し方の無い事でもある。

昨年のある日、昆虫採集の宿題が出た。チューク諸島では昆虫はとても少ない。チョウチョやバッタもいるにはいるが驚くほど小さい。おまけに、トンボやセミはこれまた小さい上に、めったに見かけないときている。宿題の昆虫は3種類、生きた状態での採集が条件となっている。さっそく、ヒロミと2人で採集に出かけた。昆虫採集用の網などそんなしゃれたものは無い。追っかけて追っかけて、すべて手づかみである。 2人で悪戦苦闘して、やっと宿題の条件に見合うサイズのバッタやトンボを3種類をゲットした。ジャムの空き瓶のフタに釘で穴を空け、中に草と水を少し入れてバッタ達を入れる。トンボはまた別の容器に入れて、元気な状態にして翌日学校に持って行った。ヒロミはクラスの友達が何をゲットしたかとても楽しみにしていた。当然みんなが自分と同じ様な状況で昆虫を採集して来ていると思っていたらしい。学校から帰ってきたヒロミの第一声は、昆虫採集の結果についてだった。

『お父さん、お母さん、みんな何を持ってきたと思う?』ヒロミは一人、ニヤニヤしている。私は、しばらく考えた。現地の子供達は虫を捕まえるくらい何てことはない、朝飯前だ。
『そうだなあ、トンボ、バッタ、セミ・・・・。』と答えた。ヒロミは、『そんなもの、持ってきたのは僕だけだったよ!』 『じゃあ、なにを持ってきたんだ??』 ヒロミは盛んに笑っている。
『ゴキブリ、ハエ、アリ、シラミ! アッハッハッハー!』 『みんなそうだよ!』
私もつられて笑ってしまった。なるほど、そういう手があったか・・・、 さすがはチューキーズ! と、うなってしまった。

チュークの子供達の学校や勉強に対する姿勢は概ねこのようなもので、我々が考えるように深くはない。対する親達も同じ様なものである。なにもかもがおおらかで難しく考える必要などはさらさらないのだ。

このような、社会と子供達の中で学校生活を送っているヒロミにとっては、小さいながらも様々な問題に直面している。我々は日本人として、ヒロミにはいつもそれなりの準備をさせて学校に送り出す。ヒロミの学校や勉強はいつも妻が見ている。女の几帳面さから、いつもヒロミのカバンの中身やノート、筆箱などをチェックしている。そして、その都度、鉛筆がなかったり、消しゴムが無かったりするときがあり、妻がヒロミに注意している。ヒロミは一言、『無くなった。』と言っている。 妻、『どうして?』 ヒロミ『みんなが勝手に僕のカバンから持っていく。』 妻、『えーーー!』 ヒロミ、『水筒の水もいつの間にか無くなっているし、水筒も壊れている。』 ヒロミが友達に注意すると、『ああ、チョット借りたよ。』という返事が返ってくる。 決して謝ったりはしない。

ある時期、あまりにもひどい時があったので担当の先生にクレームした事がある。以下、先生の返事である。『どうして、みんなに貸してあげれないの? なんで助け合ってやっていけないの?』逆にこちらが注意されたものである。こうなると、妻もヒロミも何も言えない。チュークで手に入る学用品には粗悪品が多い。従って、うちでは3人の子供達のためにいつも日本から学用品を買い求めて使用して来た。その貴重な学用品なので、妻もヒロミもよけいに頭に来る訳だ。それでも頭に来ているのは、我々日本人家族だけで、クラスメート達は決して悪い事をしているとは思っていない。

チュークの社会ではあらゆる事が助け合いの対象で、子供達の世界とて例外ではない。
クラスメート達はお互いがお互いの学用品を共用し、誰かが持ってきた水筒からだれでも水を飲んでいるし、お弁当も皆で分け合って食べている。現地の先生が、私達のクレームに対して、『どうして、みんなに貸してあげれないの? なんで助け合ってやっていけないの?』と、逆に注意を促したのは、実はこういう社会背景があっての事なのだ。

クラスメート達が、ヒロミのかばんから学用品を持ち出すのも、水筒の冷たい水を自由に飲むのも、お弁当に勝手に横から手を出すのも、すべてこれ、ヒロミを友人として認めている証でもあるわけだ。最近になって、ヒロミもそう言うチュークの人達の国民性を少しずつ理解して来たらしく、近頃は学校生活をとてもエンジョイしている。今年はクラスのプレジデント(級長)に選ばれて、クラスをまとめるのに奮闘している。

ある日、声をガラガラにして帰ってきた。『どうしたんだ?』と聞くと、『今日は先生が居なくて、自習時間が多くて、友達にいつも大声で注意していたからのどがガラガラになった。』 と言って笑っている。翌日、学校から帰ってきて、『今日、僕の声がガラガラしているのを、どうして? って友達に聞かれたよ。』と言っている。 私が、『何て言ったの?』って言う問いに、『きのう、お前達を注意するのに大声を出したからのどがガラガラになってしまったんだよ! って言った』 そうしたら、友達は『あっ、そうかそうか、ソウリー、ソウリー!』と言ったと笑っている。

子供達は今日ものびのびとした楽しい学校生活を送っている。学校に来る事は、勉強もさることながら、友達と遊ぶ事だという。学校で友達と駆けずり回った昔の自分の子供時代を思い出す。 チュークの学校はどこも例外なく設備が不充分で、教材や教職員の不足にいつも悩まされている。おのずと教育レベルの低下を招き、今後の大きな問題の一つとなっている。僻地に生まれたばかりに充分な教育が受けれない子供達。このような子供達に、もう少しきちんとした教育機会を与えてあげたいと、切に願う。

南の島の学校で
チューク諸島 / 末永 卓幸

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