2006年02月

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チュークでは新鮮な牛乳は手に入らない。
お店で売っているのは、主にアメリカから来るロングライフのミルクだけだ。
我が家で好んで飲んでいるミルクも、こんなロングライフのミルクの1つである。
ところが、我が家で好んで飲んでいるこのミルクは、地元の人たちにもとても人気があり、すぐ売切れてしまう。そんな事もあってか、最近このミルクが値上がりした。
そんな中で、1件だけ安売りをしている小さな問屋がある。
早速思い立ち、その問屋に行って大量に買い込もうとするが、なかなか買えない。
なかなか買えないというのは、業者側の怠慢から来るもので、『港のコンテナの中にはあるが、まだ持ってきていない』と言う。さらに『明日来たら店に入っているよ!』とも言う。
そこで、少しサバを読み、2日後に行ってみる。まだ入っていない。『まだ港のコンテナの中だ!』と言っている。また、あるときは、『今、店の倉庫のキーを持っている人が居ないので、商品を出せない。』などとも言う。この3週間、こんな事の繰り返しで、なかなか買えないでいるのだ。
何日かぶりに、昨日そのストアーに行ってみた。『さっきまであったがもう売り切れた。』
まだ、コンテナの中にもあるというので、今日もそのお店に行ってみた。
『もう、無い!売り切れた! 次の船だ!』
仕方が無い、高いミルクを小売で買うしかないか・・・。
とあきらめていたら、なんと、今日の夕方その貨物船が入港した。
さあー、また問屋通いが始まる。
今度は安くて美味しいミルクをまとめて買えるだろうか。。。。

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今夜は満月。
満天に輝く昨夜の神々しい月の光とは打って変り、今夜は、うす雲を通して淡い月の光が南の島の椰子林をやさしく照らしている。いつまでもこの淡い光の中に埋もれていたい衝動に駆られる。朧月もまた、風情があっていいものだ。
この時期になると日没後の南の空の水平線上に南十字星が見えて来る頃である。2月に入ってから毎晩のように南の空を眺めてみるが、いつも厚い雲に覆われてなかなかその姿を見せてくれない。
ただでさえ季節感の乏しい南の島で、季節の移ろい感じさせてくれる < サザンクロス > のまだ見ぬ姿だ。満月を過ぎ、明日からは月の出も少しずつ遅くなる。サザンクロスを見る絶好の機会だ。
かつて、海洋の民が航海の指標として見つめてきたこのサザンクロスは、これからの半年間、南の島で暮らす我々に日々の安らぎを与えてくれる。
北緯7度。地球の裏側で冬を越した南十字星が、春の訪れと共に天空にその姿を見せる。

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pocosuenagaの住まいはミクロネシア連邦チューク州のモエン島。そのモエン島の最南端の岬の上にブルーラグーンリゾートと言うホテルがある。元・トラックコンチネンタルホテル、と呼ばれたホテルだ。
そのホテルの一角のレンタルハウスが我が家である。住環境としては申し分ない。水・電気などが整備されていない島内にあって、このホテルだけは、水もお湯も電気も24時間保障されている。他の社会では、ごく当たり前のことなのだが、この島では、そんな当たり前の事がなかなか難しい。
島内は毎日毎日停電を繰り返し、水道も朝夕の1時間だけが給水時間、というのが普通である。
ホテルのキャンパスは広い芝生の椰子林で、周囲は海に囲まれている。
子供達も、ホテルの広い芝生の中で、キャッチボールをしたり、バスケットボールに興じたり、時にはホテルの桟橋で釣りをすることもある。
遊ぶ場所もままならぬ今の日本の子供達の事を思うと、とても幸せなことだ。

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南の島の代表的な食べ物の1つに、パンの実がある。
パンの実と言っても、パンが木に成っているわけではない。
人間の頭位の大きさの実で、食感は芋に似た食べ物である。
釜で蒸したり、丸焼きにしたりして食べる。
赤道周辺の島々に生育し、昔から現在まで、南の島の人達の大事な食糧となってきた。
特にこのチューク地方は、他の地域に比べても、最もパンの実に依存した食生活を行なっている地域である。通常は、3月頃から始まるパンの実の収穫が、今年は例年になく早い。
収穫を間近に控えたパンの実が随所に見られる。
これからの半年間(3月~8月)チュークの人たちに豊富な食べ物を提供してくれる。
パンの実が成らない時期には、土中に埋めて保存していたパンの実(古パンの実)を取り出して食べる。
こうして彼らは、1年中パンの実のお世話になっている。
『パンの実は神が与えてくれた食べ物だ!』と、彼らは言う。
フレッシュなパンの実は、我々日本人にとっても魅力ある食べ物だ。
蒸しても美味しいし、焼いたものもまた美味しい。
特に、油で揚げた『フライドパンの実』は、万人に薦められる一押しの食品だ。

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先日、2ヶ月間に渡る漂流の生き地獄から生還した人達を出迎えるシーンに、偶然遭遇した。死の淵から生還した家族を迎える人達の表情は、今も強く私の脳裏に焼き付いている。

4月のとある日曜日の夜、お客様を迎える為に空港に行った。飛行機が到着して到着ゲートから少しずつお客さんが出始める。出口が出迎えの現地人でごったがえしているのはいつもと同じなのだが、今夜の様子はどうもおかしい。最前線に陣取っている離島のおばさん達が、なぜか興奮状態になっているのを感じる。そのうち、待ち人が出てきたかと思うと、そのおばさん達は、なにやら大声でわめきながら、到着ロビーに集まっていた人達に向って、いっせいにお菓子やキャンディーを撒き散らし始めた。続いて出てきた数人の帰省客を体もちぎれんばかりに思いっきり抱きしめ、振り回しては、再会出来た喜びを人目もはばからず大声で口走っている。
不審に思い、どうしたことかと近くにいた知人に尋ねた。なんと、フィリピンまで漂流した人達が今帰ってきたのだと言う。なるほど、さもありなん、と、一人頷いた。しかし、驚いた。
話を聞くと、なんとチューク環礁の沖合いからフィリピンまで3000キロ・58日間の漂流を男女各2名、4人全員が生き抜いたという。途端に私の血が騒いだ。何とも知れぬ興奮が私の体全体を襲ってくるのがわかる。その日はこの漂流者の事が片時も頭から離れる事はなかった。

後の話によると、2月の上旬、サイパンから帰省した1人の女性がチュークのとある離島に帰ることになった。女性の身内と共に4人で小型ボートに乗り込み150キロ離れた太平洋の離島に向った。距離は150キロとたいした距離ではないが、行程の殆どは太洋の大海原である。しかも2月と言えば貿易風の一番吹き荒れる季節でもある。貿易風の吹きすさぶ大ジケの中を、あるいは激しく襲うスコールに視界や方向を見失いがちになりながら、全長7メートルの、船外機エンジンを1機だけ付けたボートで走っていくのである。

はたして、エンジントラブルにみまわれ、頼みのガソリンも底をついてしまった。しかし、彼等の気持ちの中にはまだ余裕があった。この海域ならまだボートや船舶に出会う可能性もある。しかも彼等はモエン本島から離島に帰るということで、様々な荷物をボートに積み込んでいた。離島に持ち帰る為の沢山の食糧、衣類、日用品など、あたかも、漂流に備えるかのごとく・・・である。彼等を58日間の漂流から救ってくれたのは、これらの食糧と日用品の数々だった。
持参していたカッパで飲み水はなんとか補充できた。漂流期間中スコールが多かったことも彼等を助けてくれた。そして持参の食糧が底をついた時でも尚、彼らにはまだ余裕があった。釣り道具をもっていたからだ。彼等がフィリピンまでたどり着けたのもこの海の恵があったからだ。空港に凱旋した時の4人の素晴らしい笑顔が忘れられない。

チューク諸島はチューク環礁を中心に600Km~700Km余りに渡って広がっている小さな環礁や島々の集まりである。古来からチューク人はすぐれた海洋民族として知られている。ヤップに近い西の離島には、今もなお、昔ながらの外洋航海用の大型帆走カヌーが現存しており、日常的に使用されている。羅針盤や磁石等が発見されるずっとずっと以前から、彼等はこのアウトリガーカヌーを蹴って、太平洋の様々な島々を行き来した。このような伝統的な航海術は今も尚、離島の人達によって受け継がれている。このようなカヌーで航海を行う場合、日よけなどは全く無い。最低限の食糧と飲み物、釣具などを積み込み、フンドシ1つで航海に出る。灼熱の太陽、大嵐、寒さ、飢え、現代人だったら一日ともたないだろう。

元来、彼等の航海は漂流に似ている。そこに違いを見出すなら、目的地があったということだろう。こういう人達を祖先にもつチューク人の、現代の生活ぶりもまた海洋民族そのものである。昔に変わらず今も尚、様々な一族、一族が、あるいは親族達が遠く離れた島々に散在して生きている。彼等は今こうしている時も、日夜海に出て漁を行い、島々を行き来して暮らしている。300キロ、400キロ離れた離島間でも、彼等は平気で小さなボートで行き来する。チュークのラジオ局からはいつも、外洋に出る時は必ず携帯食糧と飲み水、水中ライト、を持っていくように呼びかけている。しかし、海洋民族の血がそうさせるのか同じような漂流の事件は今も後を絶たない。この漂流事件の直後にも、私の親友を含む家族5人がやはり小さなボートで行方不明となってしまった。
 
私は以前から、“遭難”“漂流”と言う言葉には非常に興味を抱いていた。何の準備もなく、何の前触れもなく、いきなり極限の状態に追いやられてしまう。しかし生きなければならない。どんな状況下であろうと、まず生き延びることが要求される。人間としての全知全能が否応なしに試されるのである。こういう観点から考えると“漂流”は究極の航海、究極の冒険旅行と言えるだろう。58日間の漂流を乗り切ったこの離島出身のチューク人もまた、飛び切りの海洋民族である。彼等の皮膚は灼熱の太陽を物ともしないし、魚を生で食べる事自体、彼等の日常の生活に他ならない。彼等の海洋民族としての資質が、この58日間の究極の冒険旅行を成功させたと言えるだろう。
チュークの人達は、これからもこの小さなボートで太平洋を行き来することであろう。そして彼等、海洋民族の冒険の旅はこれからも絶えることなく繰り返されて行くことだろう。

海洋民族・究極の航海 

チューク諸島・pocosuenaga

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先月、ミクロネシア地方全域で行なわれたザビエル高校の統一試験の合格発表が本人宛てに通知された。
朗報が我が家にももたらされた。三男坊のヒロミが見事この試験に合格したのだ。
今年もミクロネシア全域で1000人以上が受験したと言う。
今回の試験は、ペーパーテストによる一次試験で、この後にさらに学校の内申書を通して、ふるいに掛けられ、最終的に合格できるのは、わずか45名のみである。20倍以上の狭き門だ。
我が家には、3人の男の子がおり、長男、次男は共にこのザビエル高校の卒業生と在校生である。
果たして、末っ子のヒロミが兄貴達の後輩となれるか、最終的な合格発表は5月まで待たなければならない。まずはヒロミに乾杯だ!

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我が家には、小さな小さな菜園がある。
子供達の情操教育用にと、軒下に土を運んできて造ったものだ。
小さいながらもこれまで、キューリや小松菜、オクラ、ネギなどの新鮮な野菜を我が家の台所に運んでくれた。その菜園に今、サツマイモの『農林一号』が植えられている。
11月のある日、日本の御客様からサツマイモを1個だけ頂いた。
慰霊祭のためにお持ちになったお供物の1つだ。
慰霊祭が終わったあと、そのお供物のサツマイモ・農林一号を頂いた。
どうしたものかと、考えた挙句、我が家の軒下菜園に、種芋として植えた。
蔓(つる)を増やし、その蔓を畑に移植して日本の美味しいサツマイモを作ろうと言うわけだ。
種芋を植えて1ヶ月の後、10本ほどの芋蔓を移植する事ができた。
今は、その移植した芋蔓からも沢山の蔓が延びて、再度移植するための場所を探しているところだ。
最初のいも蔓から、美味しいサツマイモが収穫できるのはあと3ヶ月ほどである。
美味しい日本のサツマイモを食べれる、と言うことも魅力だが、この1個の種芋からこれから先どれほどの芋畑ができていくか、と言う事もまたとても楽しみである。
チュークの人たちにもドンドン蔓を分けてあげて、美味しい日本のサツマイモを食べてもらいたいと思っている。農林一号のファミリーがチュークの島々に広がっていくのを楽しみのしている。

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今、チューク諸島では綿の木の花が満開だ。
アメリカ南部やインドなどで栽培されている綿花ではない。
熱帯性の常緑高木で、樹木の高さは30m程にもなる巨木だ。
原産地は不明で、世界中の熱帯地方に広く分布している。
1個の綿の花は両手で持ちきれないほどに大きい。
そんな綿の花が巨木全体を覆うように咲き乱れている様子は圧巻だ。
カポックと呼ばれるこの綿は、化学繊維の発明されるずっと以前から様々な材料として重宝されてきた。チュークの人達の間でもクッションや枕、糸、などの原料として昔から使用されている。

廻りの木々を圧する高さから大きな白い綿の花が、まるで巨大なタンポポのように風に舞っている姿はとても爽やかだ。
綿の花の中には沢山の種子が入っている。
貿易風が強いこの時期を選び開花して、綿に託して子孫を遠くまで運ぶのも生きていく為の知恵なのかも知れない。

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