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10年ほど前の5月、日本に大きな被害をもたらした台風があった。
この時の台風はチュークの北側の洋上で発生し、チューク環礁の北にあった極上の無人島・プサモエ島を一夜のうちに消し去った。

そしてこの3月末、25年振りの台風上陸で、チューク諸島に大きな被害をもたらした。
台風一過のある日、調査も兼ねて、環礁内の島々を幾つか回ってみた。
観光客がよく訪れる無人島の1つに、オローラ島という無人島がある。
ジープ島と並んで、休憩施設や宿泊施設のある人気の無人島だ。
島に近づくにつれて、以前と比べて島の形や景色が全く違って見えてくる。
それもそのはずで、島の正面に100m位の大きな砂浜が出現しているではないか!
しかも新しく出来た砂浜と島の間には浅い水路が広がっている。

これが一夜の工事とは・・・!!
海の脅威に乾杯だ!

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この4~5年、毎年、チュークを訪れるお客様がいらっしゃる。
今回もまた、1年も開けずにやってきた。
今回はご夫妻と奥様の妹さん。いつもの顔ぶれだ。
私たち夫婦とも、すっかり旧知の仲のような間柄で、いらっしゃるたびに楽しく賑やかに過ごしている。
メーンはダイビングだが、無人島に泊まったり、海で遊んだり、離島を訪ねたり、はたまたハイキングにと
チュークの魅力を余すところなく満喫している。

そして今回、妹のひろ子さんの誕生日を海で祝いたいと言う秘密の依頼。
このような依頼は、時々、旅行会社からも受けたりするので、こちらはお手の物!
待ってました!! 
お祭り事が大好きな私たちにとっては、願ってもないお仕事・・・。
『任せてチョウダイ!!』と、2つ返事で引き受ける。

秘密のセレモニーの場所はパラダイスアイランドと決まった。
通常のダイビングポイントでは、まずは訪れることないパラダイスアイランド。
一度はこの島にご案内したいと思っていたので、渡りに船とこちらに決める。
そして当日、1本目の沈船ダイビングを終えて、チューク環礁の東端に広がるパラダイスアイランドに向かう。

見渡す限りのエメラルドグリーンの海に輝く白い砂浜。
海のゲートをくぐり抜け、パラダイスアイランドを目にした時の素晴らしさは、正に感動!!
みんなも我先にとボートを降り、遠浅の海に広がる砂浜に上陸する。
何も知らないひろ子さんは、パラダイスの海に溶け込んで、身も心もパラダイス!
その間にせっせと『ハッピーバースデー!!』の準備。

知らぬはひろ子1人なり・・・。
ささやかな準備が出来た頃、さりげなくひろ子さんを誘い、ハッピーバースデイの歌を歌いながみんなで砂浜の小さなステージに向かって行進する。

一瞬、声が出ないひろ子さん、、、次の瞬間、パラダイスアイランドいっぱいに歓喜の声が響く。
『ありがとう!!』
『お誕生日おめでとう!!』

そして夜。
サンセットビーチバーに会場を移し、これまたサプライズのバースデーケーキ!!
ピンク一色の大きなハートのケーキを現地スタッフと共に美味しく頂いた。

『 HAPPY BIRTHDAY TO HIROKO 』

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映画・『男達の大和』を見て、子供ながらにそのスケールにド肝を抜かれ、『戦艦大和』の大ファンになった少年がいた。

『みんなは、雲に乗ってどこに行きたいか~!』
そんな先生の楽しい問いかけに、
『ボクは雲に乗ってトラック島にいきた~~~い!』
当時、小学一年生だった少年はその思いを作文に綴った。
やがて少年の心の中で、ヤマトが浮かんでいた南の島にぜひ行ってみたいと言う強い思いが募っていった。

少年の名はユウキ。
8年前、当時小学2年生だったユウキ少年は、両親に連れられてトラック島を訪ねた。
戦艦大和が浮かんでいたトラック島・・・。
その時彼は、既に少年とは思えないほどの豊富な知識をもっており、私をタジタジとさせたものである。

少年は『連合艦隊司令長官・山本五十六』の足跡を訪ね、戦艦大和はじめ、日本の連合艦隊が浮かんでいたトラック環礁の美しい島々を訪ねていった。
海の大自然の素晴らしさにも魅了され、以後、両親と共に毎年のようにトラック島に通うようになる。

そして今年、3年ぶりに訪れたトラック島は6回目の訪問となった。
これまで果たせなかった念願の沈船ダイビングも行い、70年前そのままの連合艦隊の姿を目の当たりにすることができた。
悪天候のせいもあり、思う存分には遊ぶことは出来なかったが、ヤマトを思う少年の心はそれでも十分満足だった。

ツアーが終わっての帰国早々、少年からのお礼のメールが届いた。
一緒に撮った1枚のスナップ写真と共に、かつてトラック島を訪ねるきっかけとなった少年の思い出の『せんかんやまと』の模型写真が添えられてあった。

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日本が世界に誇る超ド級軍艦、戦艦武蔵・戦艦大和。

この僚艦が、並んで映っている貴重な写真がある。
バックにはトラック諸島・春島。

昭和17年8月~19年2月まで、トラック島には日本の連合艦隊司令部が置かれ、連合艦隊の艦船が結集した。
その時に、戦艦長門の艦橋から撮影されたものが、現在、武蔵・大和が並んで映っている唯一の写真だ。

その写真に興味を抱き、トラック島訪ねて来た青年がいる。
長崎市出身の高尾さん32歳。

祖父の死後15年経って初めて、地獄のフィリピン戦線から奇跡的に生還した祖父の戦記を目の当たりにした。
それを機に、やがて戦争への興味を抱くようになる。

なかんずく、長崎生まれの彼の心を大きく揺さぶったのが、戦艦武蔵・建造秘話だった。
呉で生まれた戦艦大和に対し、姉妹艦である戦艦武蔵は、長崎で生まれた。
我が街から生まれた超ド級戦艦に興味を抱かないわけがない。
武蔵への想いは果てるともなく、やがて恋心にも似たものとなっていった。

そんな時、大和と仲良く並んでいる武蔵の写真を目にした。
トラック島だった。
トラックの海に武蔵と大和を浮かべてみたい・・・。
いつしかそんな夢が心の中に生れ育まれて行った。

祖父の戦記を目にしてからは、大東亜戦争を身近にとらえ、様々な戦記に目を通し、自分の目を通して戦地を訪ね歩いた。
機は熟した。
大和と武蔵をトラックの錨地に浮かべよう!!

忙しい仕事の合間を縫って、プラモデルを作成し、トラックを訪ねた。
憧れのトラック島だ。

艦隊司令部を初め、当時の戦跡や遺構を訪ねた。
戦艦武蔵が使っていた係留ブイがあった。
艦隊錨地に向かい、大和・武蔵が停泊していた場所を教えてもらう。
現地ガイドの協力で、当時と同じ場所に大和と武蔵を浮かべた。

バックには写真と同じ春島の山並みが見える。
夢にまで見た光景だ!!

トラック島艦隊錨地によみがえる、戦艦大和、戦艦武蔵・・・。
何度も何度も、、、夢中でシャッターを押す。

カメラがとらえた無数の写真にも増して、
心に残る1枚の光景が、無限の熱い記憶として脳裏に焼き付いている。

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グアムで結婚式を済ませ、そのままチュークに足を延ばして、2人だけの無人島と海の自然を満喫する。
都会のグアムだけでは飽き足らず、ちょっと足を延ばせば無垢の自然が広がるチュークの海で式の疲れを癒そうと言うわけだ。

最近はこのようなお客様が時々、チュークを訪れる。
この夏もそんな素敵な新婚カップルをお迎えした。

新婚のメッカ・オローラ島に泊まって、海のバージンロード、バージンアイランド、パラダイスアイランド等を巡る。
チューク新婚旅行のゴールデンコースだ。
いずれも2人だけで無人島独占の贅沢なオプション。
無人島であるオローラ島のコテージには、4部屋の個室があり、それぞれにダブルべッドが備えてある。

ここを拠点に、バージンアイランドとパラダイスアイランドを巡ったSさんご夫妻。

残念ながら海のバージンロードは高潮の為歩く事は出来なかったが、
パラダイスアイランドでは獲れたてのシャコガイに舌包みを打ち、サンゴや貝殻を拾ったり、
透明度抜群の海と見渡す限りの砂浜の中で時間のたつのも忘れる。。

椰子の木数本の無人島・バージンアイランドに2人でけで上陸。
椰子の木陰の洋上レストランでお弁当を広げる。
海と空と太陽と椰子の木陰の無人島・・・。
ゆっくりと、ゆっくりと、夢のような時間が流れる。

南の島の素敵な思い出が、少しでもお二人のお幸せを育んでくれますようお祈りしています。

お幸せに!!

キャップテン・ポコ

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今から100年近く前。
当時ミクロネシアが南洋庁と呼ばれて日本の統治時代だった頃、ミクロネシア全域から有志を募って、毎年のように日本行の観光団が組織された。
南洋群島の人達に日本をよりよく理解してもらうための方策だ。
観光団に参加した現地老人たちの話によると、とにかく底抜けに楽しい旅だったらしい。

そしてこの度、とあるグループのお招きで「初冬の信濃路」を巡る機会を得た。
そのグループとはこの10年来、毎年チュークにやってくる愉快な仲間たちで、これまでも度々このブログにも登場して頂いた底抜けに明るいアラカン軍団である。
 
南洋に移り住んで30有余年。
日本のワビ・サビとはワサビの事であろうと言い張る私を、日本の原点である信濃路に引きずり出した。

釣りは大物に非ず。
大波の中、照りつける太陽のもと、ただただ巨大魚と暴れまくる釣りのみに明け暮れる私を諌めて、仲間はワカサギ釣りにいざなった。
少女の小指にも満たない公魚・・・。
静かな湖面に浮かぶ笹舟に座り、あたかも少女の髪の毛が、そよ風に揺れるような感触を頼りにアタリを取る。
これが釣りの醍醐味だと諭される。
笹舟の中で揚げたワカサギのテンプラを肴に酒を酌み交わす。
ふと面を上げれば周囲には信州の山並みが遠くに連なっている。
忘れかけていた日本の風景・・・。

酒が旨い。

景色は椰子の木のみにあらず。
椰子の木の中で暮らす私を大自然の森へいざなう。
車は信州の山並みを走り続ける。
初冬の信濃路には早くも粉雪が舞っている。
うっすらと化粧を施した雑木林の風景がどこまでも続いている。
夢にまで見た光景が車窓に広がる。
遠い遠い昔・・・、こんな風景を見た事がある・・・。
心の中にいつまでも残る風景だ。

仲間に引かれて善光寺参り・・・。
一度は来たかったところだ。
奇しくもトラック島(チューク)にある慰霊碑には善光寺さんが祭ってある。
長野からは松本連隊が組織され、多くの方達がトラック島で戦死した。
小雪舞う善光寺で彼らの霊に祈り、友の友情に心から感謝の念を捧げる。

このアラカン軍団、何を隠そう、今となりてはワカサギを出でてカジキに至る、釣りの王道を行く木曽渓痛快呑兵衛軍団なのである。

皆さん、ありがとう!!

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『父はトラック島の夏島で生まれて、3歳まで住んでいました。』
『詳しい事は何もわかっていません。』

現地でのガイドの依頼とお問い合わせを頂いた。
父が元気なうちに生まれ故郷のトラック島に何とかして連れて行ってあげたい・・・。
そんな娘さんとのやり取りが始まった。

何度かのやり取りの後、父親の両親が夏島の鰹節工場で働いていたことが判明した。
当時、トラック諸島には20か所を超える鰹節工場があり、その殆どが沖縄の人達によって運営されていた。
お問い合わせを頂いた渡久地さんもまた、沖縄の方である。
その当時、夏島には2か所の鰹節工場があった。
とは言うもののわずか3歳でトラックを引き上げており、本人には全く現地での記憶は残ってはいない。
ただただぼんやりと、海岸の椰子の木や海の景色が幻のように思い浮かぶだけである。

当時の状況をご説明し、その2か所の鰹節工場跡をご案内することにした。
1か所は個人経営の鰹節工場。
もう1か所は企業が経営していた缶詰と鰹節工場跡である。

最初に個人経営だった工場跡に向かう。
当時の桟橋跡にボートを着け、現地人に許可を得て、ご家族をご案内した。

当時の住宅跡、レンガの釜の跡、造船所跡などを見ていたお父さんの目があるものにくぎ付になった。
自然石を組み上げた構造物がそこにはあった。
ただ石を積み上げた物ではない。
サンゴの石を巧みに組み合わせた明らかに何かを意図した石の構造物だった。

『ウガンジュだ!』
お父さんの言葉に、お母さんも大きくうなずく。

『御願所・ウガンジュ』とは、自然石を積み上げて造った物で、沖縄に今も伝わる祈祷の風習である。

遠く祖国から離れ、孤島で生きる毎日・・・。
家族や仲間の健康と幸せ、海の安全、事業の繁栄などを仲間たちと共に毎日毎日祈ったに違いない。

鰹節工場跡の片隅に今も残る御願所・・・。
積み上げられた石を触りながら何度も何度も巡る父。

『生まれ故郷に帰ったような気がする』

椰子の木に体を預ける父の表情に爽やかな笑顔が広がった。

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1943年(昭和18年)1月、太平洋戦争も日増しに激戦の度を加えている頃、航空母艦・翔鶴(しょうかく)がトラック環礁の艦隊錨地に投錨した。
差し迫ったソロモンの戦闘に参戦すべくトラック島の基地に配備されたのだ。
当時トラック島には連合艦隊司令部が置かれ、艦隊錨地には世界に誇る戦艦大和、戦艦武蔵の雄姿があった。

『私が翔鶴でトラック島に来た時、ここに戦艦大和と戦艦武蔵が並んで停泊していました。』
空母・翔鶴でトラック島に上陸した航空機整備兵の根津は懐かしそうに当時を回想する。

根津はトラック島の竹島飛行場に上陸した。
竹島飛行場は戦闘機の基地、なかんづくゼロ戦の基地でもあった。
根津はゼロ戦の整備士である。
だが竹島飛行場に上陸した根津を待っていたのは退屈な士官詰めの仕事だった。
目の前に居並ぶゼロ戦を前に、根津は一抹の寂しさを覚えた。
前線では激しい戦闘が繰り返されていた頃、太平洋の要衝トラック島にはまだまだ平和な時間が流れていた。
しかしその事が根津の運命を大きく変える事になろうとは、当の根津本人も知る故も無い。

その後、空母・翔鶴はソロモン海戦に参戦し、飛行甲板も破壊され、多くの戦死者を出し傷ついた姿で再びトラックに帰って来た。
艦上には根津の戦友の姿を見る事は無かった。

根津が駐屯していた竹島飛行場の真向かいには夏島水上基地が間近に見える。
エプロンに駐機している沢山の水上飛行機の群れ。
目の前の海上を離着水する水上飛行機が手に取るように見えた。
そんな18年4月、連合艦隊司令長官・山本五十六は根津の居る竹島飛行場からゼロ戦6機を従え、真向いの夏島水上基地を飛び立った。
ブーゲンビルの前線視察の為である。
五十六は還らぬ人となり、その遺骨は彼の死を伏せて、トラック島に停泊する戦艦大和に秘密裏に安置された。

そしてその年の暮れ、根津は幸運にも日本に帰る事となる。
その数か月後、トラックはアメリカ軍による未曾有の大空襲を受け、壊滅的な打撃を受けた。
1944年(昭和19年)2月17、18日のトラック島大空襲である。
根津はこの悲報を日本で知った。

終戦から数十年、根津の頭から亡き戦友たちの事が離れた事は無い。
彼はその間、かたくなに戦争の話を拒んできた。
そしてそんな気持ちもほぐれてきた20年ほど前から、無性にトラック島が懐かしく思われてきた。
『戦友たちの霊を慰めに行きたい』
年を追う毎にその気持ちは強くなってくる。
なかなかチャンスが無いまま歳を重ね、あと数か月で90歳を迎えようとしていた。
遂に決心し、娘たちの協力の元、念願のトラック島上陸を果たした。

大時化の艦隊錨地、竹島飛行場のジャングル、変わり果てた夏島水上基地、、、。
戦友を想い体力の限りを尽くして戦友たちの跡を訪ねた。

多くの戦友達の命と引き換えに日本に帰った自分・・・。
トラックの海に、竹島飛行場に、五十六の飛び立った水上基地で、、、戦友たちに祈る。

『良かった! トラックに来れて本当に良かった!!』

遠くを見つめる根津のまなざしがいつまでも脳裏に浮かぶ。

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