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 日本の新聞にチュークのザビエルハイスクールが紹介された事がある。
『戦争の記憶』という終戦記念日を巡る特集記事の一コマである。
ご存じの通りトラック島(チューク)には数多くの戦跡や遺構が残されている。
その中には現地人たちによって再び命を与えられ、今も現地社会に貢献しながら利用されているものも少なくない。

 このザビエルハイスクールもそんな建物の1つである。
鉄筋2階建てのとても強固な建築物で、当時、通信隊基地として使われていた。
アメリカ軍の攻撃をまともに受けながらも壊れることなく終戦を迎えた。
戦後間もなくキリスト教・イエズス会によって高校としての道を歩む事となり、ザビエルハイスクールとして現在に至っている。
この建物は、馬渕建設(旧・馬渕組)によって建てられた為、チュークの人達はこの高校を『マブチスクール』とも呼んでいる。

 現在のチューク国際空港は、日本時代の飛行場を整備したものである。
日本統治時代のモエン島(春島)には、2つの飛行場があった。
現在の飛行場が第一基地、もう一つの飛行場が、第二基地と呼ばれた。
第二基地は、水上飛行機の基地でもあり、島の最南端の岬に造られた。
戦後間もなく民間機が就航するようになると、コンチネンタル航空がいち早くこの場所に目を付けて、ホテルを造営した。『コンチネンタルホテル』である。
現在は、『ブルーラグーンリゾート』として世界中からのダイバーの憩いの場所として人気を博している。

デュブロン島(夏島)の役場は100年近く前に建てられた時代的な建物だ。
それもそのはずでここは「公学校」と呼ばれ現地の子供達が通った学校であった。
現地の子供達が毎日楽しく学んだ学校が、今では島の最重要な機関として再び島の人達に貢献しているのである。
そしてその下には大きなグランドがある。
『都洛公園』(トラック公園)と呼ばれた大正天皇の即位を記念して造られた運動公園だ。
今も夏島の唯一の運動場として、祭りに行事にと有効利用されている。先週の週末にも、夏島の全島大会が催され、未だ興奮冷めやらず、と言ったところである。
戦争が終わって70年、ここは今も変わらず、夏島の人達の心の拠り所となっている。

10年ほど前、チューク地方を大変な旱魃が襲った。
半年間ほど殆ど雨は降らず、島のあちこちで山火事や火災が起こり、パンの木やタロイモ、バナナやタピオカなどの作物はほとんどが枯れ果てていった。島人達は水不足に悩まされ健康を害する者も多く、大変な社会問題になった事がある。そんな時に威力を発揮したのが、日本時代の井戸の存在であった。
環礁内の各島々には日本時代の井戸が随所に残っており、今も彼らの大事な水資源となっている。
この井戸の存在が、当時の旱魃でどれ程の人達を助けたか計り知れない。

残されたものはわずかではあるが、日本時代に築かれた財産の一つ一つのかけらが、今も彼らの生活の中で深く根強く息づいている。