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1943年(昭和18年)1月、太平洋戦争も日増しに激戦の度を加えている頃、航空母艦・翔鶴(しょうかく)がトラック環礁の艦隊錨地に投錨した。
差し迫ったソロモンの戦闘に参戦すべくトラック島の基地に配備されたのだ。
当時トラック島には連合艦隊司令部が置かれ、艦隊錨地には世界に誇る戦艦大和、戦艦武蔵の雄姿があった。

『私が翔鶴でトラック島に来た時、ここに戦艦大和と戦艦武蔵が並んで停泊していました。』
空母・翔鶴でトラック島に上陸した航空機整備兵の根津は懐かしそうに当時を回想する。

根津はトラック島の竹島飛行場に上陸した。
竹島飛行場は戦闘機の基地、なかんづくゼロ戦の基地でもあった。
根津はゼロ戦の整備士である。
だが竹島飛行場に上陸した根津を待っていたのは退屈な士官詰めの仕事だった。
目の前に居並ぶゼロ戦を前に、根津は一抹の寂しさを覚えた。
前線では激しい戦闘が繰り返されていた頃、太平洋の要衝トラック島にはまだまだ平和な時間が流れていた。
しかしその事が根津の運命を大きく変える事になろうとは、当の根津本人も知る故も無い。

その後、空母・翔鶴はソロモン海戦に参戦し、飛行甲板も破壊され、多くの戦死者を出し傷ついた姿で再びトラックに帰って来た。
艦上には根津の戦友の姿を見る事は無かった。

根津が駐屯していた竹島飛行場の真向かいには夏島水上基地が間近に見える。
エプロンに駐機している沢山の水上飛行機の群れ。
目の前の海上を離着水する水上飛行機が手に取るように見えた。
そんな18年4月、連合艦隊司令長官・山本五十六は根津の居る竹島飛行場からゼロ戦6機を従え、真向いの夏島水上基地を飛び立った。
ブーゲンビルの前線視察の為である。
五十六は還らぬ人となり、その遺骨は彼の死を伏せて、トラック島に停泊する戦艦大和に秘密裏に安置された。

そしてその年の暮れ、根津は幸運にも日本に帰る事となる。
その数か月後、トラックはアメリカ軍による未曾有の大空襲を受け、壊滅的な打撃を受けた。
1944年(昭和19年)2月17、18日のトラック島大空襲である。
根津はこの悲報を日本で知った。

終戦から数十年、根津の頭から亡き戦友たちの事が離れた事は無い。
彼はその間、かたくなに戦争の話を拒んできた。
そしてそんな気持ちもほぐれてきた20年ほど前から、無性にトラック島が懐かしく思われてきた。
『戦友たちの霊を慰めに行きたい』
年を追う毎にその気持ちは強くなってくる。
なかなかチャンスが無いまま歳を重ね、あと数か月で90歳を迎えようとしていた。
遂に決心し、娘たちの協力の元、念願のトラック島上陸を果たした。

大時化の艦隊錨地、竹島飛行場のジャングル、変わり果てた夏島水上基地、、、。
戦友を想い体力の限りを尽くして戦友たちの跡を訪ねた。

多くの戦友達の命と引き換えに日本に帰った自分・・・。
トラックの海に、竹島飛行場に、五十六の飛び立った水上基地で、、、戦友たちに祈る。

『良かった! トラックに来れて本当に良かった!!』

遠くを見つめる根津のまなざしがいつまでも脳裏に浮かぶ。