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30年来の親友であった、87歳になる現地老人が亡くなった。

現地人にしては稀に見るほど元気な老人だった。
数年前まで、いつも地下足袋を履いて日本手拭いを首に巻き付け、蛮刀片手に
畑を見まわったり、焚き木を取ったりして山野を駆け廻っていた。

『じっとしていると足腰が弱って来るからねェ~。』と、彼はいつも笑いながらそう言っていた。

老人の名はヌーカス、デュブロン島(夏島)の出身だ。
丁寧な日本語をあやつり、日本人の心を持った人だった。
日本のTVにも何度も出演した。
30年に及ぶ私のトラック島の生活でも実り多い貴重なお話を沢山聞かせて頂いた。。

かつてのトラック島は日本の統治地で、その中心だった夏島(デュブロン島)には街が開け、島は陸海軍の一大基地となり要塞と化していた。
戦争が始まるまでは平和だったトラック島も、アメリカ軍の大空襲を堺に、様相は一変した。
日本人だけでなく現地人にも餓死者が続出すると言う飢餓の島と化した。
多感な少年時代、ヌーカスはそんな日本時代を生き抜いた。

19歳で終戦を迎えたヌーカスの心にはすでに大和魂が宿っていた。
学校での教育と躾け、日本人社会での様々な仕事と軍隊での厳しい労働が、彼をして日本人の心を持った青年に育て上げていたのだ。
そんな彼らと話をしていると、いつも日本の老人達と話しているような錯覚に陥る。
そしてそんな老人達も、今はもう数えるほどで殆ど生きてはいない。

ヌーカスの棺には、沢山の日本人からの手紙や写真、戦時中の記録など、おおよそ現地人にはふさわしくない遺品の数々が埋葬された。
きっと天国でも日本人に囲まれて笑っている事だろう。

夏島からの帰りのボート、、、

水平線に浮かぶトラックの島影が私に何かを語りかけてくる。
たった1人の現地老人の死が、日本人としての自覚と責任を私に問いかけている。

ヌーカスの笑顔が波間に現れる度に涙があふれる。

ヌーカスの大和魂は私が継いで行こう。